| 誕生年別アルバム Facebook by Birth Year | 
| 本サイト「ジャズにまつわる話」では色々な人物にまつわる話が出て来ます。一体、何人になるのでしょう。 2017年の3月にVerra Lynnが生誕100年を迎えました。そこで、彼女の他に生きていたら100歳になるジャズメンを集めたのが一昨年(2017)のこと。大勢出てきたのでびっくりしました。 そこで、次の年になって1918年生まれの集合です。今年は1919年生まれです。年代を遡り、1916年生まれ。1915年生まれ、・・・といくと、1685年セバスチャン・バッハが出て来ました。 更にさらに、何と一番の年寄りは、ギリシャの哲人・ピタゴラスでした。2600年前です。 
 写真の下の名前をクリックすると関連ページにジャンプします。 なお、カラー写真は生存中を意味します。白黒は物故者。 名前の脇は・・・誕生日。 わかGは1月5日生まれ。 全ての人物を掲載するのに大変な手間と時間が掛かります。段々増えて行きます。 とりあえず完成か、いや未だだ !? (2019/4編集開始) | 
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| 紀元前 | |||||||||
| 1670年代 | 1680年代 | 1720年代 | 1740年代 | 1750年代 | 1770年代 | 1790年代 | 1800年代 | 1810年代 | 1820年代 | 
| 1830年代 | 1840年代 | 1850年代 | 1860年代 | 1870年代 | 1880年代 | 1900年代 | 1910年代 | 1920年代 | |
| 1930年代 | 1940年代 | 1950年代 | 1960年代 | 1970年代 | 1990年代 | 2000年代 | 2010年代 | ||

↓名前をクリックで記事に飛びます
| 紀元前 | |||
| 紀元前生まれ | |||
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 ピタゴラスの定理は中学で習った。ピタゴラス学派は音の協和性の研究をした。ピタゴラス音律をご存知ですか? | 
 ジュリアス・シーザーの名言「来た、見た、勝った」を捩って歌の歌詞に使った話をご存知か? |  |  | 
| 1670年代 | |||
| 1678年(延宝6年)生まれ | |||
| ヴィヴァルディの切手を見つけました。 | |||
| 1680年代 | |||
| 1685年(貞享2年)生まれ | |||
| バロック時代のバッハが登場です。不思議なジャズサイトだと思いませんか? | 
 ヘンデルの切手を見たことありますか?どうぞ。 |  |  | 
| 1720年代 | |||
| 1725年(享保10年)生まれ | |||
| Amazing Graceが書かれた話は「神の助けは存在する」という話を地で行く話だ。 |  |  |  | 
| 1740年代 | |||
| 1743年(寛保3年)生まれ | |||
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 第3代アメリカ大統領は演説の原稿が白紙だったという有名な話があります。 |  |  |  | 
| 1750年代 | |||
| 1756年(宝暦7年)生まれ | |||
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 はい、私はモーツァルトです。5歳の時から作曲しました。天才です。 |  |  |  | 
| 1770年代 | |||
| 1770年(明和7年)生まれ | |||
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 ベートーヴェンの切手が130枚見つかりました。1ページに集めました。世界一でしょう。 |  |  |  | 
| 1790年代 | |||
| 1797年(寛政9年)生まれ | |||
| シューベルトの切手をお見せします。 |  |  |  | 
| 1800年代 | |||
| 1804年(文化元年)生まれ | |||
| シュトラウス親子の切手を見せましょう。 | |||
| 1809年(文化6年)生まれ | |||
| メンデルスゾーンの切手を集めました。 | |||
| 1810年代 | |||
| 1810年(文化7年)生まれ | |||
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 ショパンの曲を持ってきて、歌詞をつけたら美しいポピュラー・ソングに。よく歌ったものです。 | シューマンの切手をお見せします。 |  |  | 
| 1811年(文化8年)生まれ | |||
| フランツ・リストです。切手を見てください。 | |||
| 1813年(文化10年)生まれ | |||
| ヴェルディの切手を見てください。 | |||
| 1814年(文化11年)生まれ | |||
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 サキソフォンを発明したベルギー人。パリで特許を取りました。 |  |  |  | 
| 1820年代 | |||
| 1825年(文政8年)生まれ | |||
| シュトラウス親子の切手を見せましょう。 |  | ||
| 1826年(文政9年)生まれ | |||
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 ”Old Black Joe”とか”Old 
            Kentucky Home”を思い出しませんか?ジャズはまだ生まれていません。 |  |  | |
| 1830年代 | |||
| 1833年(天保3年)生まれ | |||
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 ブラームスの切手を集めました。 | |||
| 1835年(天保5年)生まれ | |||
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 ついに福沢先生の登場です。驚きですか?? |  |  |  | 
| 1840年代 | |||
| 1840年(天保11年)生まれ | |||
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 チャイコフスキーの切手を見たことありますか? | |||
| 1841年(天保12年)生まれ | |||
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 Scott Joplinの”Maple Leaf Rag”を出版して100万部を売り大儲けをして2人は仲良くなった。 |  |  |  | 
| 1845年(弘化2年)生まれ | |||
| 「ドナウのさざ波」を下敷きにしてジョ二―・マーサーが”Somethhing's Gotta Give”を書きました。 |  |  | |
| 1848年(嘉永元年)生まれ | |||
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 第一次大戦の前の年、1913年に、あの”Danny 
            Boy”を書いた。 |  |  |  | 
| 1850年代 | |||
| 1850年(嘉永3年)生まれ | |||
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 日本に帰化した小泉八雲は20年程ニューオリンズに住んでいました。クレオールの事を書いています。 | |||
| 1852年(嘉永5年)生まれ | |||
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 西部開拓時代の実在の人物。1953年の映画「カラミティ・ジェーン」はドリス・デーが主演した。 |  |  |  | 
| 1858年(安政5年)生まれ | |||
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 「蝶々夫人」のメロディをポピュラー・ソングに頂こうとする人が出て来ました。 |  |  |  | 
| 1859年(安政6年)生まれ | |||
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 名曲”Kiss Me Again”を知っていますか?”Indian Summer”はどうかな? |  |  |  | 
| 1860年代 | |||
| 1861年(文久元年)生まれ | |||
| 1903年、Tin Pan Alleyの命名者。自身はジャーナリスト兼ソングライター兼音楽雑誌出版。 |  |  |  | 
| 1866年(慶應2年)生まれ 
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 1905年のブロードウェイ・オペレッタ「マドモアゼル・モディステ」の主題歌”Kiss Me Again”の作詞家。 | |||
| 1867年(慶應3年) | |||
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 大指揮者トスカニーニがホロビッツに誘われてArt Tatumを聞かされて、肝をつぶしたという。 | |||
| 1868年(慶應4年9月8日改元/明治元年)生まれ 
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 軍艦マーチの作曲者だが、法政大学のシンフォニー・オーケストラを指導した。 | 
 ラグタイム王と呼ばれ、”Maple 
            Leaf Rag”が代表曲。 | 
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| 1870年代 | |||
| 1871年(明治4年)生まれ | |||
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 ラグタイムの父と呼ばれる。"You've 
            Been a Good Old Wagon"が初出版譜面。 |  |  |  | 
| 1872年(明治5年)生まれ | |||
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 禁酒法時代のカンザスシティを取り仕切った悪徳政治家。カウント・ベイシーを思い出すでしょ。 |  |  |  | 
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| 1873年(明治6年)生まれ | |||
| ロシアの作曲家、ラフマニノフです。チャイコフスキーの薫陶を得た。 | 
 ”Smoke Gets 
            In Your Eyes”は彼の作詞です。 | 
 ブルースの父。1914年に"St. Louis Blues"を書く。 | "Ma Ragtime Baby"で初めてRagtimeという語を使う。1893年 | 
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| 1874年(明治7年)生まれ 
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 シナトラを見つけ、自分の番組で歌わせ、世に送り出した人。 | |||
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| 1875年(明治8年)生まれ 
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 "CHICAGO"は誰もが知る代表作。3人の子が皆作曲家。長女Dorisが大好き。 |  |  |  | 
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| 1877年(明治10年)生まれ | |||
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 ジャズの創始者とよばれる男。 | 
 シカゴのボードビリアン。Jassという音楽をシカゴに伝えた。 |  |  | 
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| 1878年(明治11年)生まれ | |||
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 Mr. Bojaangleと呼ばれたジャズタップの名人。サミー・デイビスJr.の先生。 | 
 1890年代からニューオリンズでクラリネットを噴き出した、古い時代の演奏家です。 |  | |
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| 1880年代 | |||
| 1882年(明治15年)生まれ | |||
| ミルス・ブラザースの父。長男が若死にし、22年間代役で歌った。 |  |  |  | 
| 1883年(明治16年)生まれ | |||
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 ブルースの女王。ブルースの初レコーディングは1920年、”Crazy Blues”で大ヒット。 | 
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| 1884年(明治17年)生まれ | |||
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 第33代アメリカ大統領。何でこのサイトに出てくるんでしょう。 | 
 ”Ther Are Such Things”をStanley Adamsらと書いた。シナトラが歌った。 |  |  | 
| 1885年(明治18年)生まれ | |||
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 ミュージカル「ショーボート」は忘れえぬ名作。"O'l Man Riveer"は今も大事に歌ってる。 | 
 サッチモの先生。King Oliverと呼ばれた。シカゴでバンドを結成、ニューオリンズからルイを呼んだ。 | 
 ”What A Difference A Day Made”の元歌”Cuando vuelva a tu lado”を書いた。パンチョスが歌って有名。 |  | 
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| 1886年(明治19年)生まれ | |||
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 ブルースの女帝ベッシ―・スミスの先生格のブルース歌手。 | 
 1927年、初のトーキー映画「The Jazz Singer」で黒塗りの顔で黒人歌手を演じた。 | 
 SFOで1910年代に活動。"Rose Room"はバンドのテーマ曲。 | 
 ドイツからの移民。"It Had To Be You" と"Guilty"は身体に染み付いている。 | 
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 1922年、黒人バンドとして初めてジャズ・レコードを吹き込み。 | 
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| 1887年(明治20年)生まれ | |||
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 "Memories Of You"の作曲者。Shuffle Alongは黒人初のミュージカル作品。 | 
 1920年代のストライド・ピアノのNo.1。ストライド奏法はハーレムで発展したピアノ奏法。 | 
 "Lover Come Back To Me"の作曲家。オペレッタ「学生王子」も書いている。 | |
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| 1888年(明治21年)生まれ | |||
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 「サンタクロースが町にやって来る」の作詞で超有名です。地味な”You Go To My Head”はよく歌いました。 | 
 世界中が知っている曲は"White 
            Christmas" 。1億枚のレコードが売れました。 | 
 Tom Brown's Dixieland Jass Bandは1915年に初めてシカゴに呼ばれたジャズバンド。 | 
 オーストリア生まれのアメリカの映画音楽作曲家。『風と共に去りぬ』は最も有名。 | 
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| 1889年(明治22年)生まれ | |||
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 1912年にバンドを編成し、ロサンジェルスに移りニューオリンズ・ジャズを広めた。 | 
 初のジャズ・レコードを吹き込んだOriginal Dixieland Jass Bandのリーダー。バンドは今も存続。 | 
 "Basin Street Blues"、"I Ain't Got Nobody"の作者。 |  | 
| 1890年代 | |||
| 1890年(明治23年)生まれ | |||
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 シンフォニック・ジャズの創始者。ビングクロスビーを雇ったことでも有名に。 | 
 こういう古典落語家の落語はスタンダードと共通するところが有ります。 | 
 譜面にあるコード記号を発明した。「ほら吹きモートン」と呼ぶ人もいます。 |  | 
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| 1891年(明治24年)生まれ | |||
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 父の姓Coleと母の姓Porterをとってつけたペンネーム。大金持ちの御曹司。 | 
 Harry Warrenとのコンビで”Lullaby of Broadway”が最初のアカデミー賞。 |  Jack Mills Irving Millsの兄。1919年にJack Mills Music Inc.という音楽出版会社を設立。 | 
 Johnny Mercerの作詞で書いた”Too Marvelous For Words”は我々によく知られた歌だ。 | 
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| 1892年(明治25年)生まれ | |||
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 ”Mean To Me”他、スタンダードの名曲を沢山送り出してくれた作曲家。 |  |  |  | 
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| 1893年(明治26年)生まれ | |||
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 「デカッ鼻」と呼ばれたコメディアン。"Old Man Time"を吹き込んだ。30年後にMilt Hintonがカバー。 | 
 ”There Are Such Things”をStanley Adamsらと書いた。シナトラが歌った。 | 
 作詞家Gus Kahnとのコンビによるヒット曲多数。Whitingとの”My Blue Heaven”は看板曲。 | 
 Dolly Bakerに教えてもらった歌”Old Man Time”の作者。日本歌手は誰も歌わない。 | 
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 Mack GordonとAl DubinがWarrenの曲に詞を書いた。いずれもヒット曲ばかり。 | |||
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| 1894年(明治27年)生まれ | |||
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 Duke Elingtonとのコンビは有名。兄のJackとMills Muusicという音楽出版社を立ち上げた。 | 
 私が好きな”It Had To Be You”、”You've Got Me Cryin' Again”を書いてくれた。バンドリーダー。 | 
 ハーレム・ストライド・ピアノの創始者。Fats Wallerは彼の弟子です。 | 
 ”As Time Goes By”は誰もが知る名曲。「時の過ぎゆくままに」という名誤訳は有名になった。 | 
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 ブギウギピアノの父と呼ばれる。ジミー・ヤンシーのピアノを聞けば「ああ、ブギウギってブルースだ」って分かる。 | 
 「ブルースの女帝」マイクの無い時代、クラシックと同じ発声法で力強く歌った。 | 
 Richard Rodgersとのコンビは超有名。ヒット曲も軒並み。あの"Where or When"を聴け! | 
 11歳の時”High Noon”を歌った。日本中が知っているのは『ローハイド』のテーマソング。 | 
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 Harold Arlenとの”I've Got The World On A String”は大事な持ち歌。「進退きわまった」って歌知ってる? | 
 Holt Marbellとの"These Foolish Things"がヒット作。グッドマン楽団が吹き込んだ。ロンドン生まれ。 | 
 1927年にDoorothy Fieldsと出会いコンビを組みスタンダード中のスタンダードを書きました。 | 
 カンザスでカウント・ベイシーはモーテン楽団に入り、モーテンが死んで、カウント・ベイシー楽団となります。 | 
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| 1895年(明治28年)生まれ | |||
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 ハモンドオルガンの発明者。高価なパイプオルガンが購入できない黒人居住地区の教会が購入。 | スイス生まれのソングライター。「谷間に三つの鐘が鳴る」を書き、エディットピアフが歌ったのが最初だ。 | 
 ”Just A Gigolo”は元々ドイツ語の歌だが、シーザーが英語詞をつけた。Tea For Twoは大ヒット。 | 
 Jerome Kernとのコンビ、後にRichard Rodgersと組んで沢山ミュージカルを書いた。 | 
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 グッドマンの"Memories Of You"や"Honeysuckle Rose"を作詞した。 | 
 イタリア人の作曲家。”Just A Gigolo”の原曲”Schöner Gigolo, armer Gigolo”を作曲。ドイツタンゴの曲。 | ||
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| 1896年(明治29年)生まれ | |||
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 エラやビリーより2世代前の古い歌手。しかし、歌は活き活き。クロスビーの10年前に吹き込み。 | 
 ジョージの兄。ガーシュイン兄弟はアメリカ音楽にどれだけ貢献したのか計りきれず。 |  |  | 
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| 1897年(明治30年)生まれ | |||
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 日本で初めてセルマーのサックスを買ってきた「船の楽団」の楽士。日本ジャズの草分け。 | 
 「山の人気者」を書いたイギリス人のソングライター。ヨーデルなんて懐かしい言葉。 | 
 「サンタクロースが町にやって来る」の作詞で超有名です。地味な”You Go To My Head”はよく歌いました。 | 
 ニューオリンズ時代からシカゴ時代のクラリネットの名手。晩年はパリ。Petite Fleur大ヒット。 | 
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 1920年代の3大ストライド・ピアノの1人。”The Lion”がニックネーム。 | 
 1920年代にNYCでビッグバンドのスタイルを確立。ルイもホーキンスもメンバー。 |  | |
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| 1898年(明治31年)生まれ | |||
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 ルイのシカゴ時代の伴侶。賢くバンドのアレンジャー。ルイの追悼コンサートの舞台で死去。 | 
 ”Tea For Two”は誰もが知る彼の作曲。100曲しか書いていないがい評価。 | 
 バスオペラ歌手。「ショーボート」のO'l Man Riverは超有名。黒人霊歌も沢山歌った。 | 
 ニューオリンズ育ちの初期のジャズドラマー。シカゴではルイ・アームストロングとやった。 | 
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 "Rapsody In Blue"はジャズを管弦楽の演奏会形式でやった最初の試み。クラシックとジャズの架け橋。 | 
 オペラ歌手、藤原義江は帝国ホテルが住まいでした。帝国ホテルで死にました。 | ||
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| 1899年(明治32年)生まれ | |||
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 Cotton Clubのハウスバンドとして出発。父親は海軍省の高給取。子供の頃からDukeがあだ名。 | 
 踊りも歌も一流。ジンジャー・ロジャースとの数々の映画は年寄りには懐かしいだろう。 | 
 20-30年代に「ゴスペル・ソング(福音歌)」という言葉を広めたブルースの作曲家。 | 
 映画音楽で死ぬまで活躍したが、それ以前の歌、"A Hundred Years From Today"はご存知か? | 
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 シナトラとサミーの掛け合い"Me and My Shadow"はCraig Thompsonと2人で歌った懐かしい歌。 | 
 サッチモが歌った"Stardust"を聴け。これが世界一格好いい。Hendrichs夫妻が90年に出したCDは真似できない。 | 
 有名俳優だが、Rat Packの初代リーダー、1955年に結成した。そのメンバーにシナトラを引きずり込んだ。 | |
| 1900年代 | |||
| 1900年(明治33年)生まれ | |||
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 "Mack The Knife"は誰もが知る。"My Ship"はどうです?うんと毛色の違った作曲家。 | 
 映画音楽の重要人物。20世紀フォックスのお偉いさまでした。16歳下の弟は”Again”を作曲しました。 | 
 "My Blue Heaven"を歌って500万枚売れた。ビング・クロスビーの"White Christmas"が出る前はこれが記録だった。 | 
 "Sweet Lorraine", "Star Dust"などを作詞。ミルス音楽出版社専属ライターで、譜面が売り出された。 | 
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 "AloneTogether"、"Dancing In The Dark"等のコンポーザー。息子がWNYC FMのパーソナリティー。 | |||
| 1901年(明治34年)生まれ | |||
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 1956年、Alan Jay Lernerとの”My Fair Lady”は大成功ミュージカル。渋い人には”Almost Like Being In Love” | 
 "A Nightingale Sang in Berkeley Square"の作詞で有名だが、本職は放送関係。 | 
 サッチモは喋っているだけでジャズ。知らない人はお帰り下さい。 | 
 いろんな人の曲に詞を付けた。”A Hundred Years From Today”が私のFavorite Song。 | 
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 ベニー・モーテン楽団の専属歌手で始まり、モーテン亡き後はカウント・ベイシー楽団で歌った。 | 
 アランフェス協奏曲の作曲者。ギターのジム・ホールは看板曲。チック・コリアは"Spain"に拝借した。 | 
 ドイツの女優で歌手。30年代からアメリカに進出する。1979年のドイツ映画「Just A Gigolo」で出演、同名の主題歌を歌う。 | 
 エドサリバン・ショーの話は大昔に書いている積りだった。それが無かった。中学生時代に見てました。 | 
| 1902年(明治35年)生まれ | |||
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 "Fools Rush In"をオ―ジーサンズにアレンジしたが難しすぎて簡単になるよう書き直された。 | 
 古くはブロードウェイミュージカル、50年代以降は映画音楽を書いた。「慕情」はアカデミー賞受賞。 | 
 "Do You Know What It Means To Miss New Orleans?"を作詞。誰もが知る名前ではない。 | 
 カーター大統領の時代に第一回"The Kennedy Center Honors"を受章。Rodgers & Hartのコンビは名曲多数。 | 
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 『ザ・ミュージックマン』は1957年にブロードウェイで上演され、1962年と2003年に2度映画化された。 | |||
| 1903年(明治36年)生まれ | |||
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 ホワイトマン楽団でデビューしたが、飲酒運転でブタ箱。挙句の果て首になった。その後、ソロデビュー。 | 
 Dolores Hopeの旦那。夫婦で100歳超えとは。90歳の時に夫婦で歌った”It's De-lovely”は最高。 | 
 ベティさんのモデルとなった。"Boop-boop-a-doop"は彼女がオリジナル。 | 
 本名はウラジミール・アレクサンドロヴィッチ・デュケルスキー。”April In Paris”で名をあげる。 | 
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 アル・カポネのMr. Pianoと呼ばれた。シカゴで毎夜休みなしに働かされた。彼のバンドには後の有名人多数。 | 昭和一桁時代、溜池のダンスホール「フロリダ」のバンドリーダー。生粋のKO Boy。 | あのウラジミール・ホロビッツです。変なジャズサイトだと思いますか? |   ビリー・ホリデーが歌った”Strange Fruit”を書いた。人種差別に抗議する歌で、放送禁止にもなった。 | 
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 ニューヨークのジャズクラブ Village Vanguardを1935年に創設したオーナー。ロシヤ生まれのユダヤ人。 | |||
| 1904年(明治37年)生まれ | |||
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 Louis Alterの相棒。”Do You Know What It Means To Miss New Orleansの作曲者。 | 
 ”Chattanooga Choo Choo”のレコードが瞬く間に120万枚売れて、ゴールドディスクが初めて作られた。 | 
 ルイと並び称されたコルネット吹き。禁酒法時代のアルコール中毒者。27歳で死去。 | 
 ハーレムのピアノ弾き語り元祖。”I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter”が大ヒット。 | 
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 Harry Warrenとのコンビでスタンダードが書かれた。”At Last”なんて60年も歌ってきた。 | 
 "After You"という誰もが知らない歌があります。サリナと4Freshmenと私が歌ってます。 | 
 Jimmy McHughとのコンビは誰もが歌っている歌を書いてくれました。名コンビですが夫婦ではありません。 | 
 伯爵と言うのですから公爵の次なのでしょうか。私はベイシー楽団のJoe Williamsが大好きでした。 | 
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 H.Warrenの”Boulevard of Broken Dreams”を昭和9年の映画「ムーランルージュ」で歌いました。 | 
 サックスをジャズに導入した最初のプレーヤーです。Body And Soulの名演奏があります。 | 大正末期から法政大学でジャズを始めた男です。英語で歌っているのが残っています。ジャズっぽいのにオドロキ。 | Cliff Friendと2人で”Old Man Time”を書いた。80年代にMiami Newsに掲載された記事しか資料がない。 | 
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 トミー・ドーシーの1つ違いの兄さん。1934年にDorsey Brothers楽団を立ち上げ。兄弟喧嘩ばかりしていた。 | 
 テネシーのロスビルの農家生まれのギター弾き。20年も写真だけあったが、誰だかわからず、記事が書けなかった。(25/1/27) | ||
| 1905年(明治38年)生まれ | |||
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 エラ・フィッツジェラルドを雇ったバンドリーダー。4年後、生れつきの脊柱結核で34歳で死去。 | 
 Ted Koehler、その後Johnny Mercerと組んで、数々のヒット曲を送り出した。 | 
 Five Penniesは彼のバンド。「五つの銅貨」は彼の伝記映画。ダニーケイが主演した。 | 
 トロンボーンが本職だが、歌もいい。”A Hundred Years From Today”はJack Tが歌い出した歌です。 | 
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 シナトラで有名だが、Pide PipersやSentimentalistsは喧嘩別れや給料が安くて辞めて行った。気が短い。 | 
 ホワイトマン楽団のRythm Boysでいい演技を見せている。”Mississippi Mud”を聴くべし。 | 
 シナトラとバーバラ・ストライザンドに曲を書いたのは自分だけだろう、と言っている。 | |
| 1906年(明治39年)生まれ | |||
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 20年代中頃シカゴ、27年にRed Nickolsに呼ばれNYに進出。ウイスキー中毒で演奏できない時代がある。 | 
 人種偏見から逃れフランスで市民権をとる。孤児を11人養子にして育てた。サンダース・ホームから2人連れて行った。 |  | 
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| 1907年(明治40年)生まれ | |||
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 「American Popular Song」を出版。作曲家を軒並みつるし上げるような批評を書いた意地悪男。 | 
 タコマ出身のシンガー。10ヶ月違いの弟Al Rikerがいる。クロスビーの学生時代からの姉さん役。 | 
 トミー・ドーシー楽団、ベニー・グッドマン楽団などのドラマーを歴任した。酔って転んで頭を打って41で死んだ。 | 
 エラがアポロ劇場で優勝するのを見て、チック・ウェブに紹介した。90歳になる年、来日し世良さんとライブ。 | 
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 米国作曲家作詞家出版者協会の会長だった。"What A Difference A Day Made"の英語詞を書いた。 | 
 慶應の幼稚舎から大学を出た木琴奏者。私が幼稚舎生の時、赤屋根講堂でコンサートを聴かせてくれた。 | 
 "Unchained Melody"の作詞。1955年の刑務所映画「Unchained」の主題歌。後にライチャーズ・ブラザースがヒット。 | 
 プラターズを育てたプロデューサー。リードを歌ったトニー・ウィリアムスが止めて分派活動が始まった。 | 
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 ボズウェル・シスターズの長女。ミルスより先にレコード発売。コニーはソロシンガーに転身。 | 
 クロスビーの相棒。姉のミルドレッドを頼ってロスまで車で来た。ホワイトマン楽団で雇われた。 | 
 "The Shadow of Your Smile"他いい歌が一杯ある。オスカーを3回もらっている。 | 
 1930年代の代表的トロンボーン奏者。写真だけがしまってあって何も書かれていなかった。 | 
| 1908年(明治41年)生まれ | |||
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 ジャンゴ・ラインハルトと共演したジプシー・バイオリンで有名。他に知る人がいない。日本にはジャズでは寺井尚子くらい。 | カラヤンです。面白いでしょ。こんなところにお邪魔して驚きです。 | 
 Jimmy VanHeusenの最初の相棒。心臓病でサミー・カーンが後を引き継いだ。シナトラ初期の歌を書いています。 | 
 2002年、リー・ワイリーのTV番組を私のジャズサイトで宣伝し、NHKから礼状が届きました。昔っぽい話です。 | 
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 15歳でHarvard入学許可という天才少年だった。22歳の時”Body And Soul”をイギリスで作曲しました。 | |||
| 1909年(明治42年)生まれ | |||
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 "Sing, Sing, Sing"のあのドラムはドラムをソロ楽器へと格上げした。グッドマン楽団のレコードを知ってますよね。 | 
 グッドマン楽団に黒人が雇われたと話題になった。ハンプトンの1947年の"Stardust"8分は醍醐味あふれる。 | 
 Bob Hopeの愛妻で歌手。ボブが100歳で亡くなるまで69年間連れ添った。ドロレスは102歳まで生きた。 | 
 昭和一桁時代にジャズコーラスを始めた。戦後は歌謡曲の作曲。「おーい中村君」なんてご存知か? | 
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 King of Swingと呼ばれたが、創始者ではない。当時のSwing MusicはJazzという言葉の代わりに使われた。 | 
 ”'Tis Autumn”を歌う人が出て来た。Nemoの名は一般には知られてない。”Don't Take Your Love From Me”も彼。 | 
 東京美術学校出身の画家、グラフィックデザイナーであり、映画、ジャズ、ミュージカルの評論家。LPのライナーノーツも多い。 | 
 ビリー・ホリデーにLady Dayというニックネームを付けた。主にベイシー楽団での演奏が気分良かったものと思われる。 | 
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 先天的な白内障で片目は全盲、もう片方も殆ど見えなかった。ベイシーは世界八不思議の8番目と絶賛した。 | 
 キャピトルの創立者。マンシーニとの”Moon River"等、名曲のヒットメーカー。”Dream”は作詞作曲。 | 
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| 1910年代 | |||
| 1910年(明治43年)生まれ | |||
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 ハーレム時代のベーシスト。80歳記念に文字通り"Old Man Tiime"を吹き込み。この歌は人が歌わない私の持ち歌。 | 
 ジプシー・ギターをアメリカに伝えた。パリ時代にテントが火事で火傷を負った指でギターを弾いた。 | 
 稀代の作編曲家。沢山、逸話が残っている。それがきっかけで前田憲男と仲良しになった。ジェンキンス問題という。 | 
 グッドマンと並ぶクラリネットの名人。スイング時代のバンドリーダー。戦時中は太平洋諸島で危ない目に遭った。 | 
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 ”On A Slow Boat To China”の作詞作曲家。”Moment Like This”は向田邦子の愛聴盤と紹介され売れた。 | 
 ミルスブラザース4兄弟の長男。彼のギター1本で歌ったものだ。26歳の若さで死んだ。父さんが代わりに歌った。 | 
 映画主題歌のポップソング"Unchained melody"を作曲。60年代にライチャース・ブラザースが大ヒット。 | 
 ニューオリンズ生まれのトランぺッター、ボーカル、バンドリーダーでTrad Jazzの有名人。Keely Smithと結婚。 | 
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 トミー・ドーシー楽団のアレンジャー、トランペット。Sunny Sideの編曲は秀逸。アイディアを拝借してFJSのコーラスに。 | 半年ほどニューオリンズにいた。サッチモに「日本のサッチモ」とニックネームを付けられて帰ってきた。 | 芦田ヤスシさんのお父さん。昭和一桁時代、溜池のダンスホール「フロリダ」の菊地滋弥バンドでサックスを吹いた。 | |
| 1911年(明治44年)生まれ | |||
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 大晦日のNHK紅白歌合戦の最後に「蛍の光」の指揮をしたのは何時の事だったのだろう。「嘆きの街」って知ってます? | 
 どんな歌も聴き比べるとマキシンが勝っている。派手さやはったりはないが味がある。玄人好みの歌手だ。 | 
 「ロックンロールは音楽のベビーフード」と言った。もともとクラシックのオーボエ吹きから、あの合唱団で大成功。 | 
 "Smoke Get In Your Eyes"を最初にレコーディングが1933年。後にプラターズが歌い世界中に流れた。 | 
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 30年代にフレッド・アステアとのコンビでミュージカル映画で大活躍した。ダンスも格好良かったが歌も上手い。 | 
 ニューオリンズで生まれ、この地から離れることなく102歳まで現役。「モダンなんて知らない」というTrad Jazzを吹き続けた。 | 
 ゴスペルの女王。1947年に”Amazing Grace”を最初に吹き込んでいる。それでアメリカ全土に広まった。 | 
 キング・シスターズ6人姉妹の長姉。姉妹の中で97歳という最長寿だった。 | 
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 イギリス人の父とアメリカ人の母に生まれる。帰化して日本人となった。30年代は関西でドラマー。原田イサムと忠幸は息子。 | 
 1940年代、Cool Jazz、West Coast Jazzの種をまいた。4Freshmenを発見しCapitol Recordに連れて来た。 | 上海のフランス租界、米英租界で国籍不詳のダンサーとして華々しく上海社交界を席巻したミステリアスなManuelaであります。 |   カウント・ベイシー楽団で一生を過ごしたギタリスト。OZSONSが長い間歌った”Until I Met You”を作曲した。 | 
| アコースティック・ギター一本でブルースを弾き語りして、アメリカ大陸中を渡り歩いた。当時の聴衆はギターのテクニックが巧みなのに驚いた。 | 
 主に映画音楽で活躍したアメリカの作曲家である。特に、ヒッチコック監督作品などに音楽を提供した。 | ||
| 1912年(明治45年7月29日まで・大正元年7月30日から)生まれ | |||
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 トミー・ドーシー楽団のチーフアレンジャー。"Day By Day"は今も歌われている名曲。Jo Staffordの旦那。 | 
 38年レス・ブラウン楽団結成。44年に"Sentimental Journey"の作曲をし、Doris Dayに歌わせて大ヒット。 | 
 ミルス4兄弟の次男。一番高いパートを歌った。60年に初来日し、サンケイホールで初めて生で聴いた。 | 
 グレンミラー楽団のドラマー。ハーバード出身のインテリ。新聞・雑誌のライターとして活躍した。 | 
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 ペリー・コモのTVショーが59年から放送された。"It's Impossibe"は70年のヒット。79年に来日し、テレビにも出た。 | 
 戦前は学生を集めてバンドを始め、戦後、ブルーコーツを結成。90歳になってもアルトを吹いていた。 | 
 映画で主題歌”Singin' In The Rain”を歌いながら踊る場面を1950年代に見た方がいると思います。 | 
 グッドマンのカルテットには2人の黒人が雇われました。テディ・ウィルソンとライオネル・ハンプトンでした。 | 
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 1996年に40年前のハーレム・フォトに写っているジャズメンでまだ生存している者を集めて写真を撮った。 | |||
| 1913年(大正2年)生まれ | |||
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 喜劇役者とはダニー・ケイのような人をいう。妻、シルビア・ファインは「五つの銅貨」の作詞作曲者。 | 
 シナトラの歌を沢山書いた。戦時中は戦闘機のパイロット。墓はシナトラの墓の敷地に。 | 
 ローレン、ローレン、ローレンを誰もが呟いた。ティオムキンの歌は彼が歌った。昔は歌も書いています。 | 
 スタン・ケントン楽団と同じくCool Jazzのバンド・リーダー。スタン・ゲッツらサックスの名手が4人いた。 | 
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 もともとはトランペットを吹いた。長尾さんとブルーコーツを結成。MCという言葉を作った。11PMの司会。 | 
 シナトラの歌の作詞を沢山した。"All the Way" "High Hopes"はシナトラが歌いアカデミー賞獲得。 | 
 ミルス兄弟3男。ソロパートはハリーとドナルドが歌った。4ビートでスイングする歌い方が似合う。 | 
 ダニー・ケイの愛妻。「5つの銅貨」の作詞作曲は有名である。1991年、78歳で死去した。 | 
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 歌は上手いし可愛い。グッドマンはプロポーズ寸前まで行ったが辛抱した。ヘレンは辞めて金持ちと結婚。 | 
 Duke Ellington楽団やEarl Hines楽団で歌った歌手で、100歳で亡くなるまでは唯一の生き残りだった人です。 | 
 50年代にBebop Baronessとよばれたパトロン。チャーリー・パーカーやモンクは彼女の家で死んでいった。 | 
 1935年、モダネアーズの創設者。妻のPaula Kellyをメンバーに加え、混声のQuintetとなった。56歳で死去。早過ぎた。 | 
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 声楽家で教育家で有名な方で100歳まで長生きされました。若かったオージーサンズは立花音楽教室で練習したのです。 | トリオ・ロス・パンチョスの創設者。初来日が1959年、べサメ・ムーチョは世界的ヒット。80で死去するまで現役だった。 | 昭和8年に横浜野毛にジャズ喫茶「ちぐさ」 を創設した。現在もちぐさを守るグループがジャズミュージアムを建設している。 | 
 シカゴにおいてエレクトリック・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、「シカゴ・ブルースの父」と称される。 | 
| 1914年(大正3年)生まれ | |||
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 Modern Jazz Quartetのドラムス。61年に来日した。ドラムにおいてビ・バップスタイルの先駆者的存在。 | 
 ジョー・スタッフォードがドーシー楽団に雇われる時、アレンジャーとしてついて行った。"Everything Happens To Me"はシナトラのヒット。 | 
 グッドマン楽団のトランペッター。"And The Angel Sing”はマーサ・ティルトンが歌ったが、彼の作曲にマーサーが詞をつけた。 | 
 Ink Spotsのリードとして、その名を轟かせた。”If I Didn't Care?”を知らない人は、もぐりです。 | 
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 バップ歌手の草分け。アール・ハインズ楽団で歌っていたが独立して自分のバンドを結成。サラ・ボーンを連れてった。 | 
 "I'll Never Smile Again"を書き、シナトラとパイドパイパースが吹き込み大ヒット。オージーサンズが歌った。 | 
 "The Encyclopedia of Jazz"1960は有名なジャズ事典。ピアノも達者で作曲もこなし、十冊前後のジャズの本を書いています。 | 
 George Forrestとは高校生時代からのコンビで”Stranger In Paradise”や”It’s A Blue World”を書いている。 | 
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 Swing時代のトロンボーン奏者。娘がDarylといい、2012年初来日の時からの大親友。ダリちゃんはよく手紙をくれます。 | 
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| 1915年(大正4年)生まれ | |||
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 102歳まで現役で活動。そして102歳8か月で死去した。2010年に来日、このサイトでその宣伝を手伝った。 | 
 ベッシー・スミスのブルースを受け継ぎ、エラやサラなど多くの歌手に影響を与えた偉大なお手本ジャズ歌手です。 | 
 ミルス4兄弟の4男。彼のバリトンボイスは落ち着きのあるソロを聞かせてくれた。彼の息子と友達になって久しい。 | 
 Dorisが書いた"You Always Hurt The One You Love"をドナルド・ミルスが死ぬ年まで歌ったのが残っている。 | 
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 ソリッド・ギターを発明。40年代にGibsonに売り込みに行ったが一蹴された。50年代半ばからロックンロール、60年代にグループサウンズではエレキは必須。 | 
 Robert Wrightとは高校生時代からのコンビで”Stranger In Paradise”や”It’s A Blue World”を書いている。 | 
 「3 Hits and a Miss」というボーカル・グループにいましたが、1937年からグッドマン楽団の専属歌手。 | 
 エリントンの懐刀。彼のピースがエリントンの曲に使われた。"Take the 'A' Train"はビリーの名前でcopyrightsれてます。 | 
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 はい、私がシナトラです。 | 
 「愛の讃歌」は超有名だが、「谷間に三つの鐘が鳴る」はエディット・ピアフが歌ったのが最初。 | 
 ケントン楽団のアレンジャーです。シシリー島生まれ。後に自己の楽団を結成し4フレッシュメンのレコードを出しています。 | 
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| 1916年(大正5年)生まれ | |||
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 "Again"を1948年に作曲した。モンローの「帰らざる河」やスリーサンズの「誇り高き男」も知らない人はいない。 | 
 昔人間には「バッテンボ〜」といえば分るでしょう。2年生の頃、レコードを買ってきて覚えました。 | 
 シナトラが独り立ちして歌い出すのが、ハリージェイムス楽団。この頃のレコードは貴重。声が若い。 | 
 ハーレムノクターンとダニー・ボーイの入ったレコードがありました。どれ程ラジオで聞こえてきたことやら・・・ | 
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 リズムを刻むだけだったギターでギター・ソロを始めた。チャーリー・パーカー、ガレスピーとBopを始めたギタリスト。 | 
 トミー・ドシー楽団のピアニスト。”Oh! Look At Me Now”を作曲し、シナトラが歌い大ヒットとなった。 | 
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| 1917年(大正6年)生まれ | |||
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 第2次大戦中、東南アジアに英国兵士慰問。前線に行く兵士と”We'll Meet Again”を大合唱。 | 
 ジャズ写真家の最初の人物。彼のお蔭でいい写真が残っている。 | 
 ナンシーが101歳まで長生きし2018年7月に亡くなった。フランクが死んで20年後だ。 | 
 Swing時代にアーティ・ショー、ベニー・グッドマン、ハリー・ジェームス楽団で歌った。 | 
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 ジャズ歌手として最も名を上げた歌手といってよい。サミーはエラを神様扱い。 | 
 シナトラ一家のディノですよ。それ以前はジェリー・ルイスと底抜けコンビ。 | 
 ランバート・ヘンドリックス&ロスを結成したモダン・ジャズコーラスの元祖。 | 
 超美人歌手。自分の名前をサリナ・ジョーンズにやった。サはサラのサ。 | 
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 80年代赤坂マヌエラに来て歌ってくれた。ジャズがこの人の底流にある。 | 
 15歳でデビューしたので齢を3年上の1917年生まれで登録したという。 | 
 Golden Gate Quarrtetの創始者。黒人霊歌の男声合唱は男声カルテットの基本。 | 
 超絶技巧のジャズ史最高のドラマー。1歳半からボードビルに出た。父親が偉い! | 
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 グレンミラー物語はジェームス・スチュワートと共演、懐かしや。可愛らしい顔は忘れられない。 | 
 性格も音楽も変人。天才宣言は有名。マイルスの伴奏をしたら嫌われた。 | 
 チャーリー・パーカーと共にバップの創始者。最初のバップレコードが44年。 | 
 こんな歌手は稀!微妙に音をはずして歌った。そんなレコードご存知か? | 
| New Faces of 1952で”Guess Who I Saw Today”を歌ったミュージカル女優。 | 
 サンパウロ生まれのギタリスト。名前だけ記憶の隅っこにあった。偶然、Facebookで紹介されて・・・ | ||
| 1918年(大正7年)生まれ | |||
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 アンドリュース・シスターズの3女。1940年代から50年代にヒット多数。3グレイセスが歌う。 | 
 ロンドン生まれのピアニスト。シカゴ時代のジミー・マクパートランドと結婚。古い写真をFBでもらった。 | 
 Gus Kahnの息子で作曲家。Beautiful Friendshipが代表作。John Hicksの大好きな歌、彼の伴奏で歌った。 | 
 Jones3兄弟の長男。99年来日の時、エレベーターの中で出会った。サインが残ってる。 | 
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 Vocaleseの元祖。スキャットとは違う。Moody's Mood For Loveは超有名。 | 
 1944年のJATPのプロデューサー。53年には日本にも、日劇でコンサート。 | 
 慶應出身のジャズ評論家。ラジオの語りは講談調。著書は落語調。 | 
 NYフィルの指揮者として有名だが、West Side Storyの作者。 | 
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 ケネディ大統領とハーバードで同級生だった作詞家。結構生意気だった。 | 
 39年、ジミーランスフォード楽団のトランペット。後に自己の楽団を結成。 | 
 ルート66を書きキングコールが歌いテレビ番組になりました。ジュリー・ロンドンはカミサン。 | 
 ベイシー楽団の専属歌手として名高い。沢田靖司は師匠として崇めた。 | 
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 Fats Wallerが見つけた天才少女。14歳の時から書き、弾き、歌う。 | 
 Ames Brothersが歌った”The Naughty Lady of Shady Lane”を書いた2人。日本では江利チエミが大ヒットさせた「裏町の娘さん」である。同年生まれの同年死去の2人。 | ||
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| 1919年(大正8年)生まれ | |||
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 ”Sixteen Tons”を1957年に歌ったカントリーの大歌手。この歌はその10年前に作者自身に歌われたもの。 | 
 一夜で”It Waa A Very Good Year”を書いた作曲家で、シナトラがラジオで聴いてカバーし大ヒット。 | 
 ”Unforgettable”は父娘の大ヒット。「たばこは声を低音にする」と信じ、煙草で肺がんになった馬鹿。 | 
 98年に「ママギターを歌ったDon Cornellです」とメールをくれ仲よくなった。古くはジャズ歌手だった。 | 
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 グレンミラー楽団のモダネアーズの華。娘が3人。1人生き残っている三女Juulieが最後のお友達。 | 
 1955年に始まったTBSの「日真名氏飛び出す」には誰もがかじりついて見ていた。 |   ハーレム・ノクターンの作曲者。サム・テーラーが吹いて一世を風靡した。 | 
 ロンドン生まれの盲目ピアニスト。「バードランドの子守歌」はサラボーンが歌って超ヒット。 | 
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 ジャズメッセンジャースでお馴染み。軟弱なクールジャズを嫌い、ハードバップを提唱。 | 
 50年以上前に吉祥寺で出会った。ライブ録音の場だった。そのレコードを大事にしまってある。 | 
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| 1920年代 | |||
| 1920年(大正9年)生まれ | |||
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 カーメンの歌の料理法は頭脳的です。日本には何度も来ましたが、弾き語りが最高です。 | 
 ジャズ・アコーデオンが流行った時期があります。日本の小バンドでもアコーデオン入りのバンドがありました。 | 
 ジャズ・メッセンジャースでクラシックのピースを入れたりユニークな演奏を考え出しました。 | 
 大砂塵という映画でJohnny Guitarを歌いました。すぐに覚えましたが、ペギーの書いた歌でした。 | 
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 戦前、昭和10年代にハワイアンのバンドを始めた。マヌエラの常連だったが、98年オルフェアンズ復活で専属歌手となる。 | 
 1955年、34歳でパーカーのパトロンの部屋である五番街のStanhope Hotelのスイートで友人とテレビを見ながら死去。 | 
 彼のギターのバックでレコーディングした歌手たちの名前を上げたらきりがない。「荒野の7人」はカイオラの作曲。 | 
 ジョニーハートマンが最後に吹き込んだ"Nobody Home"という名曲を書いた。クリント・イーストウッドが大好きな歌。 | 
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 ”I Left My Heart In SF”は彼女のために書かれた歌。最初に歌ったのはTony Bennettではない。 | 
 50年代終りに"Take Five"はあまりにも衝撃的だった。Iolaの内助の功であの歌詞は書かれた。 | 
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| 1921年(大正10年)生まれ | |||
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 1964年にブロードウェイ・ミュージカル”Hello, Dolly!”でDollyを演じ、トニー賞をもらった。次の年、サッチモが吹き込んだ。 | 
 映画「ホワイトクリスマス」で初めて見た。実に可愛らしい顔をしていた。それ1回だけ。 | ”What A Wonderful World"はベトナム戦争を嘆きBob Thieleと2人で書いた。反戦歌と知らずに歌う歌手が多い。 | 
 ウディ・ハーマン楽団のオーケストレイターで、1947年に”Four Brothers”という曲を作曲した。 | 
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 バカラックの曲に詞を書いたのはHal Davidです。ディオンヌ・ワーウィックがバカラックの専属歌手のようでしたね。 | 
 リプリーズ時代にシナトラが500曲をレコーディングし直しました。その名伴奏をしたのがリドル・オーケストラです。 | 
 "Misty"を作曲した話は誰でも知ってるが、左手と右手を巡る話はVocalにも通じる話で興味深い。 | 
 レーガン大統領夫人のナンシーです。就任式でシナトラが”Nancyを歌いました。94歳まで長生きしました。 | 
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 「ジャズは死んだ」なんて言われる。そんな話はぶっ飛ばせと、2007年に「生けるレジェンド」を集めてコンサートを開催した。 | 
 この60年間、Vocaleseを歌い続け、作り続けた。LHRの命は短かったが、よく長生きしてくれた。 | 
 Steve Allen Showはいい番組だった。坂本 九が呼ばれて行った。珍しい歌も書いている。 | 
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| 1922年(大正11年)生まれ | |||
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 61年に来日。40年間東京で暮した。私のジャズのお袋。80になる前年に帰米。2014年に亡くなるまで音信は続いた。 | 
 マイルス・デイビスを擁するチャーリー・パーカーのバンドのピアニストとして有名。喧嘩が強かったんでDuke。 | 
 このページの作成中に97歳で死去した。映画「知りすぎた男」のケセラセラは生涯のヒット曲。この写真、カラーだったのに。 | 
 晩年は、筋萎縮性側索硬化症で車椅子生活となり、ベースを弾けなくなったが、作曲・編曲活動は死の直前まで続けていた。 | 
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 50年代の初めに歌った"Moody's Mood For Love"はVocaleseの古典と言ってよい。 | 
 ベルギ―生まれ。ジャズ・ハーモニカの東の横綱。52年に移民、チャーリー・パーカー・オールスターズのメンバーとなった。 | 
 『オズの魔法使』の"Over The Rainbow"はOZ Sonsのテーマソングだった。麻薬で変死しました。 | 
 Johny Hertmanが51年に歌った"Wheel of Fortune"をカバーして52年のヒットチャートNo. 1になった。 | 
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 シャンソン歌手、石井好子が"Stardust" をホーギー・カーマイケルのピアノで歌ったことがあります。面白い話を聞きました。 | 
 英国のコメディアンが、「One For My Baby」のパロディーを江戸サリバン・ショーで演じた。 | 
 57年に”Li'l Darlin'”をベイシー楽団のために書きました。翌年Jon Hendricksが言葉をつけました。”Girl Talk”を60年代に書きましたが共通性があります。 | ラスベガスでフロア・ショーを妹とのトリオで始めた。"Stay"という歌を書いた。この歌を書いたのは誰かと探した結果彼のことを知った。 | 
| 
 Harold ArlenとのコンビでOver The RainbowやIt’s Only A Paper moonなどの作詞を担当した。 | |||
| 1923年(大正12年)生まれ | |||
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 MJQはMilt Jackson Quartetから始まった。1年後にリーダーをJohn Lewisに譲りModern Jazz Quartetとなる。 | 
 MemphisのSun Record StudioでElvisほかのロックンローラーを育てた。ミュージカル「Million Dollar Quartet」を見に行った。 | 
 カントリー・ギターに凝った時代がある。大学の教え子が弾くのを見たのがきっかけだ。Martin OM-45を買ってしまった。 | 
 ジャズ写真家第2号。写真の専門学科の出身である。プラチナ写真を9000$で売り出したのを知りしっこ漏れそう。 | 
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 Jones3兄弟の2男。サド・メル楽団はビッグバンド人間にはたまらない。サドではなく、Thadです。"To You"という歌が素晴らしい。 | 
 MJQのベースとして有名。最初はレイ・ブラウンで始まったが、1年後1952年からメンバー。ジミーとアルバートはパーシ―の弟。 | 
 あの低音の魅力には痺れる。ヒットさせる前に死んで歌えなくなった"Nobody Home"を聴いてください。 | 
 三波春夫と申します。切手の話から三波春夫に繋がりました。面白いサイトでしょ? | 
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 ブルーベックの愛妻です。可愛らしいお婆ちゃんでしょ?”Take Five"の歌詞は彼女が手伝って書いたものです。 | 
 Tony Bennettを育てたピアニストで2000年まで伴奏を続けました。トニー・ベネットは元気に歌ってますがラルフは死にました。 | 
 カントリーのKingと呼ばれた有名人だが29歳で死んでしまった。短い人生でよくぞこんなヒットを残した珍しい人物だ。 | 
 レコーディングする時、最初にお呼びがかかる人を”First Call” ミュージシャンと呼ぶ。彼は”First Call Guitarist”でした。 | 
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 ”Devil May Care”の譜面が欲しいと言ったオジサンがいた。まさかBob Doroughの弾き語りを聴いたんでしょうか? | 
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| 1924年(大正13年)生まれ | |||
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 31歳で飛び込み自殺をしたバップの先駆者ピアニスト。横浜のモカンボでのセッションの音源が残っているのみ。 | 
 Mary Kaye Trioがラスベガスの夜中のフロア・ショーを始めた。珍しくハワイの生まれ。兄のNormanは2つ上。 | 
 1954年春に、双頭のクインッテットと呼ばれたClifford Brown and Max Roach Quintetを結成。しかし2年で終わってしまった。 | 
 60年に4フレッシュメンに加入。64年に初来日。73年まで続けた。いい歌も書いている。ギターも大人っぽい。 | 
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 Billy Echsteinに妹のように可愛がられた。Billyが自分のバンドを結成した時サラはついて行った。 | 
 "Moon River"と「酒バラ」が2年続けてオスカーを獲った。3年目は「シャレード」だったが逃した。 | 
 少女のような可愛い声で弾き語った。後世にブロッサムを手本にした弾き語りの友達が2人いる。 | 
 仏シャンソン界最後の巨人と云われた。94歳の誕生ライブで死ぬ直前に来日公演を果たした。 | 
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 銀行員時代からのジャズ評論家。オージーサンズを聴いてべた褒めしてくれた。日本楽友会副会長。2021/12/29没。 | 
 "What A Diff'rence A Day Made"は生涯の大ヒット。ダイエットの薬と酒の飲み過ぎで死んだ。 | 
 パウエル兄弟は若死に兄弟で有名です。弟はクリフォード・ブラウンと一緒に車の事故で死んだ。 | 
 カーター大統領はホワイト・ハウスではじめてジャズ・コンサートを開いた大統領。100歳と3か月で2024/12/29没。 | 
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 私が大学1年の時に"Take Five"を書いた。5拍子の曲のモダンさに嬉しくなった。 | 
 4Freshmenのグループ#3、#4時代のバス歌手。FFの黄金時代だった。"Oh Lonely Winter"は名曲。 | ベッサメムーチョを16歳の時に書いたと伝えられる。メキシコの作曲家・ピアニスト。マヌエラにも来た。 | Tony Bennettのために”When Do The Bells Ring For Me”という歌を書いた。ちっとも有名じゃない。 | 
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 ”A Lot of Livin' To Do”の作詞をした。2024年に100歳になった。 | |||
| 1925年(大正14年)生まれ | |||
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 もとはブルース歌手が「ラストダンスは私に」の作曲でヒット。自分が死んで、どん底のジミー・スコットを復帰させた。 | 
 笈田敏夫とは幼稚舎から一緒のKOボーイ。ハワイアン華やかなりしころのことご存じですか。ハニーアイランダース。 | 
 最後の「ゲソ・コンサート」にオージーサンズを呼んでくれた。「来年も同じメンバーで」と言ったが4ヶ月後に死んだ。 | 
 Les Brownのバンドに47年からメンバーだったが、53年にはWest Coarst Jazzのバンド、Dave Pell Octetを立ち上げた。 | 
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 フィンガー・ピッキングでオクターブ奏法が有名。オルガンのジミー・スミスとの名コンビは他には無い。 | 
 40年代のBig Name、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリデイ、マイルス、コルトレーン、モンクたちと共演したBopの生き残りです。長生きの人でしたが99歳で死にました。 | 
 1958年、A Great Day In Harlemと呼ばれる有名な写真を撮影した写真家。58人のジャズメンが写っている。 | 
 James Moodyの吹いた”I'm In The Mood For Love”は超有名になりました。そのアドリブのフレーズに歌詞をつけた男がいます。Eddie Jeffersonです。 | 
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 ポール・アンカの"Diana"を編曲しています。そんな関係からMy Wayをシナトラが唄ったものと考えられます。娘Nikka Costaがスタンダードを唄っていました。 | 
 92年の初来日以来、2000年以降も来日してJimmyファンを喜ばせていました。極めつけの”Someone To Watch Over Me”を聴いて下さい。 | 
 ピーターソンの歌はご存知か?”Walkin' My Baby Back Home”を唄うのを聴いて嬉しくなったことがあります。直ちに採譜したのを覚えています。 | 
 57年から59年までビリー・ホリデーの専属ピアニスト。ビリーが詞を書き”Left Alone”が生まれた。 | 
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 56歳という若さで死んだウェストコースト・ジャズの中心的アルト奏者。35歳から50歳まで、麻薬中毒更生施設に。77年には初来日。 | 
 Alan、Marilynのオシドリ夫婦で50年間作詞家コンビを続けた。ルグランの「風のささやき」はオスカー。映画「追憶」の"The Way We Were"も有名。 | 
 メル・トーメのファンは特別です。全てのLPを持っている人がいます。"The Christmas Song"はメル・トーメの作品です。 | 
 ニューポート・ジャズフェスをプロデュースした人物。長生きして2021/9/13に95歳で亡くなった。 | 
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 45年、ケントン楽団に迎えられ、ケントンからJune Christyと名付けられた。アルバム「Something Cool」は名盤。 | 
 "The Shadow of Your Smile"など作曲。オーケストラの編曲が素晴らしい。"Here's To Life"はオスカー。 | 
 50年代に製造のハモンドオルガンB-3が有名で、ジミー・スミスなどジャズミュージシャンは好んで演奏しました。 | 
 サミーは歌謡曲をミュージカルにしてしまう。"Mr. Bojangles"はそんな1曲。若い頃からサミーの真似をしてきた。 | 
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 ブラジルのOs Cariocasを創設したが、30歳で死んでしまった。後を引き継いだのは弟のSeveriano Filhoだった。 | 
 1950年代、ロックンロールの元祖。”Rock Around The Clock”が後楽園アイスパレスで聴こえてきた。私が中学生の頃だ。 | 
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| 1926年(大正15年12月24日まで、昭和元年12月25日から)生まれ | |||
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 シックスレモンズのリーダー。ジョージ川口、中村八大なんて懐かしい名前です。2011年6月5日85歳で死去。 | 
 ジョン・ピザレリの父。7弦ギターを発明、親子で14弦の合奏を聴かせる。長生き親父。 | 
 フランスのVocaleseコーラスDouble Six of Parisを結成した。その前身The Blue Starsのメンバーだった。 | 
 帝国ホテル社長です。幼稚舎からの先輩で、マヌエラの創設に関わりました。2020年3月3日に93歳で死去。 | 
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 80代晩年になってからの歌唱が素晴らしい。昔は黒人ぽい声だったのが、張りのある歯切れ良い歌になった。 | 
 バップからクールへ、そしてHard Bopへ、最後にはフュージョンへと変身。マイルスはルイ・アームストロングの後継者。 | 
 彼のオーケストラの編曲はリプリーズ時代のシナトラを支えたと言える。50年代、キングコールの"Mona Lisa"はビッグ・アレンジとなった。 | 
 あのモンローは僅か36年の生涯だった。わかGは昭和28年の映画ナイアガラでモンロー・ウォークを見た。 | 
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 マクガイア姉妹の長女。17年のブランクの後にラスベガスで復活。90年代終りにカーター元大統領の75歳の誕生日に歌った。2004年のPBSのTVが最後。 | 
 昔はよく来日し、よく聴きに行った。そしてレコードを買った。2013年の東京Jazzに来た。100まで歌う勢いで、益々若々しい。 | 
 われわれが若い頃ジャズ歌手という印象はなかった。でも名前だけは聞いていた。"The Lady Is A Tramp"がヒットしたらしい。 | 
 4フレッシュメンのリーダー。あのオープン・ハーモニーの高音リードを歌い続けた。高校時代から採譜して参考にさせてもらった。 | 
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 ジャズの救世主と言われテナーサックス。華々しい音楽活動は死ぬ前の6年くらいで、「Free Jazz革命」となります。寂しげな音色でした。 | 
 最大のヒット曲は1955年の"Cry Me A River"ですが、Bobby Troupのプロデュースによるものです。その5年後に結婚しています。 | 
 モダネアーズのメンバーとして1948-1956、1959-1960半ばに歌っていたが、90年代にも更に2000年代にも手伝いで顔を出す。 | 
 オスカー・ピーターソンのベースでした。2001年の富士通コンコルドに来たのが最後となりました。長部正太とのCDが最後の吹き込み。 | 
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 イタリアのトランぺッター。60年代後半に「夜空のトランペット」が聞こえてきた。当時、同じイタリアのクロ−ド・チアリもヒットしていた。 | 
 MJQのパーシー・ヒースの実弟。2020年1月19日に訃報がでた。若いピアニスト、ジェブ・パットンは懇意にしていて、和恵はヒースの歌を唄っている。 | 
 97年にマヌエラに連れて来られて、親しく話をしました。愛妻の佳子さまとはそれ以来の付き合いです。前田憲男も一目置いていました。 | 
 戦後、シャープス&フラッツを率いて60年。2016年に卆壽の祝いをオークラで。愛妻の塚原愛子さんはオージーサンズをよく聴いてくれました。 | 
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 「ヴォラーレ」を歌ったイタリアーノです。一世を風靡しました。日本でもカンチョーネが流行りました。 | 
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| 1927年(昭和2年)生まれ | |||
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 タンゴバンドのリーダー。87年にブエノスアイレスでライブを聴きに行った。即興演奏を聞かせてくれた。何度か来日している。 | 
 子供の頃に「ウスクダラ」を真似して歌ったものだ。なんとトルコ語だった。日本では江利チエミが歌った。 | 
 ボサノバを始めた革命児。それまではブラジルはサンバだった。アメリカに渡りシナトラと仲良くなった。 | 
 ゲッツのサックスが好きな人が多い。Coolのケントン・バンドにもウディ・ハーマン楽団にもいた。ボサノバ得意。 | 
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 4フレッシュメンのバーバー兄弟の兄。60年まで歌いソロ歌手に転向しようとコムストックに替わったが、61年に交通事故で死んだ。 | 
 ビッグフォーはJATTというラジオ番組で有名になった。リクエストをする番組のさくらがいた。仲良し親父の佐藤宏さん。 | 
 SwingleSingersをパリで立ち上げ、バッハを「バダバダ・・」とやってしまった。後にイギリスで新グループを立ち上げ。 | |
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 Hank、Thad、Elvin3兄弟の一番下。ThadとElvinが早死にして長男Hankが長生きして、何度も来日した。最後に会ったのは99年。 | 
 帝国海軍の軍楽隊出身。戦地で散り行く兵士たちを音楽で送り出した。グレン・ミラーも同じ話。音楽家も戦時中には、こういう場面に身を置くことになる。 | 
 ジャズ・タップの有名人。川村隆英はJimmyの弟子でTaka Slydeいうステージ・ネームをもらって来た。 | 
 ケントン楽団の3人目の専属歌手。Smokey Voiceで低音が美しく、スタン・ケントンはオーディションでたちまち気に入ってしまった。 | 
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 「テネシーワルツ」は看板ソング。一人の歌手が多重録音でコーラスを吹き込んだのは彼女が世界で最初らしい。"Old Cape Cod"は4重唱。 | 
 「イパネマの娘」ほか、ジョビンの歌の英語版を書き、ルグランの”Watch What Happens”他も英語詞を書いている。 | 
 イギリスのジャズ歌手・ミュージカル女優。70年代終わりごろからアメリカで活動。グラミー賞受賞。 | 
 ”Just Walkin’In The Rain”を憶えてますか? オリジナルはThe PrisonairesというDoo-Wopコーラス。 | 
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 Ames Brothersのメンバー。唯一人の生き残り。2022年元旦現在で94歳。映画にも出ている。”The Naughty Lady Of Shady Lane”は未だ憶えている。 | 
 アニタ・カー・シンガーズのリーダー。「ポップコーラスの錬金術師」 と呼ばれている。 Gene Puerlingに聴かせてやりたい。 | 
 秋山幸雄さんがまだ生きているというので、クリビツ テンギョウだ。21年10月の史子さんのライブに青学の後輩に連れられて来た。その時の写真を清Gが送って来た。 | 
 有馬徹とノーチェクバーナは2024年で70年になります。有馬さんは若くして亡くなりましたが、バンドは引き継がれてラテンを演奏しています。 | 
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 珍しい鉛筆のデッサン画を描く画家がNew Orleansの絵を描いている。その一枚が我が家に来た。 | |||
| 1928年(昭和3年)生まれ | |||
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 マクガイヤ姉妹の次女。だから真ん中のパートを歌った。3人の中で最初に亡くなった。84歳だった。 | 
 中目黒の台地に家を建てた。みんなが電車から「フランキーの家」と指差した。昭和20年代末にシティー・スリッカーズでコミックバンド。 | 
 ニューオリンズR&Bの弾き語りロック歌手。プレスリーからビートルズが若者のハートをつかむ時代で、陰に隠れていた。 | 
 ニューオリンズのルイ・プリマのバンドで専属歌手となり、後に結婚した。長生きして2017年89歳で死去。 | 
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 昭和3年生まれのジャズドラマー。奥さんが沢田教室の高岡けい子先生。2003年に脳梗塞で亡くなった。75歳だった。 | 
 ハイノートヒッターと呼ばれる。カナダ生まれで、ケントン楽団。ダブルHigh Cを吹いた。TVの「ロッキーのテーマ」は彼の作曲。 | 
 60年代以降のポップソングの作曲家。Hal Davidが作詞をしている。ディオンヌ・ワーウィックは専属歌手の如しと言ってよい。94歳で23年2月8日自然死。 | 
 ロックが始まり、ビートルズ時代になって引退同然の時期があったが、70年代半ば、ビング・クロスビーによって復活した。 | 
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 デトロイト出身のピアノ・ヴォーカル。2003年に来日した時、Bフラットの杉谷さんに呼ばれて聴きに行ったのが初めて。 2021年92歳で死去。 | 
 プラターズのバスで、あの低音の”You Never Know"は忘れられない。プラターズは分派してバラバラになったが、最後まで生き残った。 | 
 デビー・レイノルズと結婚したが割って入ったのがリズ・テイラー。その後も3人と結婚した色男。他に40何人彼女がいた。 | 
 ラテンを歌うのが好きだった。パンチョスともレコーディングしている。伴侶、Steve Lawrenceとのラスベガスでのショーが語り草。 | 
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 アート・ブレイキーとHard Bopを始めJazz Messengersを立ち上げた。彼が書いた"Song For My Father"がヒット盤。 | 
 Nat Adderleyは弟。ライナーノーツで間違って書かれているものがある。最後は兄弟一緒に活動した。45歳の若死に。 | 
 シカゴ生まれのピアニスト。2000年代以降も来日し演奏活動を続けた。マンスのピアノは鍵盤が歌ってくれる。 | 
 シアトルの有名歌手だった。96年夏にシアトルに行った時、既に店を畳みライブを聴けずに帰ってきた。 | 
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 チャーリー・パーカーを師と仰ぎ、ベースだけの伴奏でモダンなボーカルを歌った。デューク・ジョーダンと結婚した。 | 
 名前だけ記憶の片隅にあった。Etta Jamesのページを書き始めて思い出した。 | 
 ミスター・ムーンリバーと異名をとる。いつぞやの紅白歌合戦に来日して出場した。他にそんな歌手はスーザン・ボイルか。 | 
 Swinging Shepherd Bluesを作曲したカナダのフルート奏者。エラがスキャット入りの名唱を吹き込んでいる。 | 
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 4フレッシュメンのオリジナル・メンバーで3rdボイス、ドラムス、トランペット。オリジナル・メンバーでは最後まで生き抜いた。 | リオっ子(Os Cariocas)のオリジナルメンバーで1942年から亡くなる2016年まで歌い続けた。Filhoはピアノを弾きながら歌った。 | 
 ”A Lot Of Livin' To Do”の作曲を1960年にした。作詞をしたLee Adamsは2024年に100歳を迎え生存中。 | 
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| 1929年(昭和4年)生まれ | |||
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 FJSのメンバーが”Wisper Not”を歌いたいと言って編曲をした。2004年スピルバーグ映画「The Terminal」の終りに出てくる。2024年9月21日に95歳で死去した。 | 
 アトランタ交響楽団のコントラバス奏者として71年間の世界記録をもっている。87歳で演奏中のステージで亡くなった。 | 
 60年代半ば、コルトレーン、オーネット・コールマンらとバップに飽き足らず、フリージャズ革命を起こした。 | 
 4フレッシュメンの向こうを張ってHi-Lo'sを立ち上げ、難しい編曲を書いた。後にSingers Unlimittedを結成。 | 
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 慶應のライトミュージック出身。気持ちの若々しい先輩で100まで吹いてくれるものと思います。 | 
 63歳でこの世を去った妖精。ティファニーで朝食をどうぞ。 | 
 ブルーコーツ初代の専属歌手。アメリカ映画「サヨナラ」で助演女優賞を獲得した唯一の東洋人。 | 
 サド・ジョーンズと双頭のバンド、サドメル・オーケストラを結成した。それまでのアレンジとは全く別ものだった。 | 
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 わかGが10代の時初来日。チケットをもらいコンサートに行った。その41年後「41年ぶりです」「Oh, it's yesterday」と来た。 | 
 おそらく日本人ジャズファンが一番好きなピアノと言えばビル・エバンスの名を上げるものと思います。 | 
 日本のテディ・ウィルソンと呼ばれるスウィングピアノ。鈴木章二のリズムエースの結成時のメンバー。 | 
 ”Rondon By Nigght”を書いた英国のライター。シナトラが吹き込み、Singers Unlimittedがアカペラで歌った。 | 
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 夫Alanとのコンビで50年作詞を続けた。"How Do You Keep the Music Playing?" は83年のアカデミー賞。 | 
 父、芦田 満は昭和一桁時代のサクス奏者。ヤッさんは私の一回り上。それでよく気が合った。もらった古い資料は本サイトの記事になっている。 | 
 バップの生き残りと言われるピアニスト。ニュージャージーのNicaの家に住んでいる。タップの川村隆英が師匠に連れていかれた。 | 
 アムステルダムのホテルの窓から投身自殺をした。彼を師匠と崇めるヒロ川島は彼のトランペットをもらった逸話がある。 | 
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 マイルス・デイビスのバンド、最後の生き残りメンバーだった。死ぬまで現役で90歳のレコーディングもした。20/5/24死去。 | 
 NYC在住のピアニスト。 1954年の横浜モカンボでのセッションは超有名である。93歳で来日、コンサートも。まだ現役。 | ||
| 1930年代 | |||
| 1930年(昭和5年)生まれ | |||
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 クレイジーキャッツがデビューした50年代に銀座アシベでのライブを見に行ったものだ。高校生の頃だった。その後、シャボン玉ホリデーは誰もが見ただろう。 | 
 フリージャズ3人の1人。「高松宮殿下記念世界文化賞」を2001年に受賞した。意味不明の“ハーモロディクス”理論を唱えた。 | 
 60年代〜70年代まで、エラ・フィッツジェラルドの専属ピアノ。ロリンズの名盤「Saxophone Colossus」やコルトレーンの「Giant Steps」のピアノ伴奏。 | 
 West Side Storyの作詞の後、作曲もした。"Send In The Clowns"はサラ・ボーンの歌があるが真似なんて出来るものではない。 | 
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 ヴィブラフォン奏者。私が高校生時代、鈴木章治とリズムエースだった。渋谷のプリンスに学校の帰りに寄り道した。 | 
 カーメン・マックレーが最大の賛辞を送る大歌手。ベティのスキャットや歌のフレーズ作りは、独自のものだ。 | 
 1人だけ生き残ったゾウさんです。4人の中で一番兄さんなのです。 | 
 ドリー・ベーカーはクリント・イーストウッドの大ファンで、いつも"I love Clint Eastwood"とうっとりしては言っていました。 | 
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 Fred Statonの来日に際し宣伝記事を依頼されて書いた。John Millsが「Dakotaはfamilyだってな」と書いてきた。 | 
 ランバート・ヘンドリックス&ロスはランバートが事故で早世し、来日公演がない。ヘンドリックスだけが丸山に呼ばれて来た。 | 
 セロニアス・モンクの”Blue Monk”に歌詞をつけて歌った。はじめ、間違った情報でニーナ・シモンと言われた。 | 
 この顔を見ると”St. Thomas”を思い出す。ロリンズの母親がSt. Thomas島の出身で、この元歌の民謡を聴かせたから生まれた曲だ。 | 
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 ”Georgia On my Mind”は生涯のヒットだが、日本人歌手が歌うとレイチャールス節がちらちら見え隠れする。 | 
 一度だけ観光に来日した。一晩だけのライブが組まれ呼ばれて聴きに行き。一発で大好きになった。軽いスイングで歌ってくれた。 | 
 マックス・ローチと双頭のバンドを組んで大人気だったが、2年後、事故で死んでしまいバンドは無くなった。 | 
 ダークダックスのゲタさんです。小島正雄さんが育てた最初のグループでした。 | 
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 76年に来日し”アランフェス協奏曲”を演奏した。33年後、再び「アランフェス」を銘打つコンサートに来日した。ロン・カーターも一緒に来た。 | 向田邦子の愛聴盤の記事が雑誌に出て、レコードが売り切れて、一枚3万円の値段が付いた。後年、CDが復刻された。 | 
 昔のコメディアンです。娘の小野ひとみと仲良くなって20年近くなるでしょうか。六本木のReal Diva’sでお父さんにも会いました。 | 
 わずか14歳でプロのピアニストになった。アート・テイタムが「次代の大物」と言った。Poincianaという曲を最初にレコーディングした。 | 
| 1931年(昭和6年)生まれ | |||
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 三木武夫の采配で首相になってしまった。三番町マンションには警備のポリスボックスが出来てしまった。うちの親父に会いに来たものです。 | 
 懐かしい名前を思い出した。92歳で元気にしている。「情熱の花」は1959年のリリース。日本ではザ・ピーナッツがカバーした。 | 
 2度来日している。2度とも聴きに行きいい気持になりました。張り上げない歌にはボリューム感が豊か。流石、本場の本物の歌手です。 | 
 マクガイヤ姉妹の一番下。メロディー・パートを力強く歌った。2人の姉は先に他界した。マクガイヤ・メドレーを編曲してマヌエラシスターズが歌う。 | 
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 キング・シスターズは6人姉妹だった。マリリンは一番若く、最後にあの世の姉サンたちのところに合流した。若い時は美人でした。 | 
 ビリー・ホリデーの遺作”Left 
            Alone”をビリーが歌うであろう雰囲気で演奏して大ヒットになった。 |  Leslie Bricusse 1/29 |  Anthony Newley 9/24 | 
| 1961年にロンドンからやって来たコンビが、”STOP 
            THE WORLD - I Want To Get Off” (地球を止めてくれ―俺は降りたいんだ)という凄いタイトルのミュージカルを書いた。サミー・デイビスJr.が主役を演じるようになった。心に迫るストーリーと歌だ。 | |||
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 ボサノバの神様だ。来日してコンサートに行ったが酷いものだった。開始も1時間40遅れ。どうしょうもない人間。 | 
 クリフォードとマックスローチのバンドのピアニストだが、彼の嫁が運転する車でクリフォードと一緒に死んでしまった。 | 
 ”Rainy Night In Georgia”を歌い唯一のヒットと言える。これを沢チンが歌いたくて歌った。ロックの歌だが上等なのだ。 | 
 ジミー原田の長男。忠幸は弟。日本楽友会(ジャズ関係の人の親睦会)の会長。30年以上の付き合い。 | 
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 ナット・キング・コールの実弟。来日する度にマヌエラに連れて来られた。サリナと鉢合わせというハプニングもあった。 | 
 オペラの岡本グループで、わかGの教え子が歌っていた。2011年にイタリアに「蝶々夫人」の公演に行った。 | 
 チャーリー・パーカーが34歳の若さで死去した後、残された未亡人と結婚し、子供たちの継父となった。 | 
 60年の”Work Song”は囚人の労働を歌った代表作だが、56年に”Sermonette”という奇妙なタイトルの曲を書いている。 | 
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 マイルス・デイビスのピアノだった。ジミー・コブ(dr)とポール・チェンバース(bs)のトリオは世界最高といわれた。 | 
 "I'll Never Fall In Love Again"を書いた。後にTom Jonesが歌い我々が知るようになった。 | ||
| 1932年(昭和7年)生まれ | |||
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 ドラムスが本職だが歌もよく歌った。沢チンの78年のLPはグラディの太鼓、ハンク・ジョーンズのピアノだった。 | 
 名曲を沢山残してくれた。コンサートでは、ピアノを弾いて歌を唄ってオーケストラを指揮し忙しい舞台だった。 | 
 オージーサンズを可愛がってくれた世良G。いつも「揃って来るなら歌いなさい」。最後は世良Gの追悼コンサートだった。 | 
 エディ・フィッシャーの愛妻だったが、リズの浮気から始まり、娘も生まれたのに別れた。娘、キャリー・フィッシャーが60歳で死去し母も。 | 
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 「男と女」はダバダバ・・で誰もが知っている歌だ。オージーサンズまで歌ったのです。フランス語の意味も分からないまま。 | 若々しいトシちゃんは自ら後期高齢者バンドKKBを立ち上げた。演奏もいいのだがジョークが面白い。 | 
 シンセサイザーの考案者。高校の同級生が一番下の弟だったので、1956年から知っている。オートバイ好きだった | 
 慶應高校に音楽愛好会(楽友会)を創設したのが亜星さんたち。70年を超す歴史を持っている。仲良しの先輩です。 | 
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 4Ladsを1950年に創設して以来、歌い続けた。日本にも度々来て、この顏は忘れることはない。86歳で死んだ。 | 
 ダークダックスのマンガさんです。4人の中で一番早く歌えなくなりました。 | 
 本職は映画俳優だが「月影のなぎさ (Moon-Light Swim)」でヒットしました。 | 
 カントリーの歌手からロックまで。Million Doller QuartetやHighwaymenのメンバーとしても渋い役者だ。 | 
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 リズムエースを1953年に結成した。1995年に亡くなるまでリズムエースは続いた。 | 
 カナダ出身の毛色の変わったクラシックピアノ奏者。バッハに傾倒している。この低い椅子を見て! | 
 ブルーコーツの3代目バンドリーダーとして50年務めた。何とオージーサンズは2回もBluecoatsのバックで歌った。 | 
 シナトラのヒット曲”That's Life”をDean Kayと2人で書いて有名になった。 | 
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 リズ・テーラーは昭和7年、ロンドン生まれの英国人です。アメリカも国籍があります。 | 
 猪谷千春と共にコルチナダンペッツォの冬季五輪に参加した。その後、一般スキーに転向、日本人初のオーストリア国家検定教師の資格を得た。 | ||
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| 1933年(昭和8年)生まれ | |||
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 雪路、良重、たまみの3人娘がいた。水谷良恵と結婚したが、自殺で幕を閉じた。藝大の打楽器科に入ったんですよ。岩城宏之は同級生。 | 
 ”Good Life”はディステルが書いたフランス製の歌です。イケメンで有名だったそうです。知らずにいてフランス語の歌を聴いたのです。 | 
 「なべさだ」と呼ばれて久しいジャズ・レジェンドです。バークリー音楽大学(旧音楽院)からは名誉音楽博士号を授与された。 | 
 アメリカの人種差別社会から逃れてフランスに行った人は多い。彼女もそんな歌手の1人である。 | 
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 アルバム「Blue Burton」は彼女の遅咲きのデビューアルバムで1967年のリリースである。度々来日し日本でも人気歌手になった。 | 
 シアトルの婆ちゃん歌手で、日本人には馴染みがない。私はたまたま聴きに行ってCDをもらってしまった。チップをはずみました。 | 
 80になって日本に32年ぶりに来てコンサートをやった。4時間の変なコンサートに参った。前座の馬鹿がくだらなかったのですよ。 | 
 ジャズギターの名人とは知り合って30年近くなる。87歳になったという。現役でライブ活動をしている。牟礼さんの音には沢チンが惚れた。 | 
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 世良さんの追悼会でオージーサンズはマーサの1曲前で歌った。入れ替わりの時、褒めてくれた。当たり前だ、我々は心込めて歌ったのだ。 | 
 サリナとスージー黒岩が好きなジャズ評論家。ライブには一人で現れるので、いつも私のテーブルで一緒した。 | 
 まだ元気で現役でレコーディングもしている。2007年に来日し全国ツアーをした。本サイトが宣伝に一役買った。2023年3月2日に死去。 | 
 ”It's Only Make Believe”をヒットさせたロック歌手が”Rainy Noght in Georgia”をサム・ムーアと歌ったのを見つけたまげた。 | 
| 巨人軍の応援団長。2年先輩が我々の所に連れて来た。ハービー・トンプソンのライブに応援に来たのは驚きだった。 | 元気者の光井バンチャンも病後はラッパが支えられなくなった。この写真を撮ったのが2008年11月。バンチャンに会った最後だった。 | 
 カントリー・シンガーの大御所。ジャズ爺は彼のCDもレコードも持っていない。共通項は”We Are The World”だけ。 | 
 ダークダックスのパクさんです。一番若いメンバーですが、一番早く亡くなりました。 | 
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 ヨーデル歌手なんて昔はいたのです。「山の人気者」なんて古い歌をご存知かな? | 
 日本初のピアノ弾き語り。ナットキングコールに憧れていた。シックス・ジョーズの初代メンバー。 | 
 沢チンが1970年代初めに、次郎さんのバンドでデビューした。また、前田憲男のWind Brakersのメンバーだった。 | 
 ホキ徳田からFacebookのお友達リクエストが来た。90歳のお婆さんですがよろしく、と。 | 
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 アイ・ジョージが2025年1月に91歳で亡くなりました。2002年にAll of Me Clubで会いました。大昔、トリオロスパンチョスの前座で歌いました。 | |||
| 1934年(昭和9年)生まれ | |||
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 キングストン・トリオの”Tom Dooly”は毎日聞こえてきた時代がある。最後まで歌っていた只一人の生き残りだった。 | 
 11PM以前はジャズ評論家としてレコードのライナーノーツを書いていた。タイトルの誤訳が話題になる。 | 
 彼女が晩年にジョー・ウィリアムスの持ち歌だった”Here's To Life”を断りもなく吹き込んでグラミーを獲ってしまった。 | 
 "Sherry"を憶えてますか?まだ、Four Seasonsと歌ってます。2019年に来日しています。 | 
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 50年代のポップス、”I’ll Be Home”が最初です。「砂に書いたラブレター」は大ヒットでした。 | 
 石井大臣はジャズ通であります。2度お会いして話をしました。歌も歌いますし、楽器もサックスを吹かれます。 | 
 セクシー女優のイメージしかない人が多かろうと思います。過激な動物愛護で有名なのです。ブリジット・バルドー!! | 
 ペドロ&カプリシャスのデビュー曲「別れの朝」の原曲をUdoがドイツ語で弾き語りをしている。若々しい。 | 
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 80年代に日本で”Amazing Grace”をヒットさせたのは若い頃のギリシャのナナ・ムスクーリだった。 | 
 見ず知らずの前田憲男からメールが来て仲良くなった。ある疑問に原書を紐解きその答えを見つけたからだ。 | 
 1961年、自身のデビュー作「悲しき街角」が大ヒットだった。 その後のことは何も知らない。55歳で死んだ。 | 
 ソフィア・ローレンなんて遠に忘れていた。それが突然思い出した。イルカに乗った少年を歌ったのだ。 | 
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 シナトラでヒットした”That's Life”のオリジナルのシンガー。ミシシッピ生まれだが20代後半にロンドンに移住した。 | 1966年の映画「男と女」に出演し、フランシス・レイ作曲の”ダバダバダ ダバダバダ・・・”を歌った。 | 
 「夜霧よ今夜も有難う」は裕次郎が歌いました。浜庫さんの作で”Kiss Me Again”が元歌です。 | 
 昔々のマヌエラで園田まゆみのライブはいつも岩崎桂子さんのピアノ、稲葉さんのベース、そしてドラムスは寺田厚先輩だった。2年位続いた。 | 
| 1935年(昭和10年)生まれ | |||
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 エルビスのレコードがスケート場で掛かった。度肝を抜かれた。ロックンロールはバカにしていたがエルビスは上手かった。 | 
 60年代ポップス歌手。”Mr. Lonely”とか”Blue Velvet”などヒットチャートNo.1を売り出した。 | 
 マイルス・デイビスのベースだった。ジミー・コブ(dr)とウィントン・ケリー(pf)のトリオは世界最高といわれた。 | 
 70年間にわたるキャリアの中では、Albert Ayler、Paul Bley、Bill Evans、Keith Jarrettらと共にレコーディングを行った。 | 
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 60年代半ばに出したアルバムThe In Crowdがグラミー受賞で名が知れた。ファンキーなピアノが売り物。 | 
 1952年にワゴンマスターでデビュー。カントリーの第一人者だった。ワゴンマスターのレコードがデビュー盤。 | 
 伴侶のイーディ・ゴーメとのラスベガスショーはテレビか映画で流された。今や語り草となった。 | 
 ロックンロール、Million Doller Quartetの1人。2012年、ミュージカルをシアター・オーブに見に行った。 | 
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 ”Chances Are”とラジオから聞こえてきたのを記憶している。その後のことは何にも知らない。 | 
 モータウンサウンドにSam & Daveがいることは知っていたが、興味はなかった。が、”Rainy Night in Georgia”を歌った。これには脱帽した。2025/1/10に死去89歳。 | 
 メキシコの小さな巨人と呼ばれる作曲家。英語の歌詞をつけられた歌がある。”Yesterday I Heard The Rain”をお聴き。 | 
 アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャースのピアノで”Mornin´”と”Dat Dere”を書いた。 | 
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 モータウンのThe Four Topsのリーダー。1953年に結成され、2023年になると70年歌い続けたことになる。 24/7/22死去。 | 11PMのサラブレッズの1人だった。この齢になっても矍鑠としてベースを弾いている。驚きの爺ちゃんだ。 | アメリカ永住の偉大なるミュージック・プロデューサー。日本に3大テノールを招聘したのは寺島さん。 | 浅草のサンちゃんと呼ばれ人気者だった。名刺交換をしたのは20年か30年前だった。グローバル4のライブは面白い。 | 
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 3大テノールのルチアーノ・パバロッティです。1996年来日、国立競技場で大コンサートでした。 | 
 あの「The Sound Of Music」のジュリー・アンドリュースです。2024年10月の誕生祝です。元気そうです! | ||
| 1936年(昭和11年)生まれ | |||
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 昭和一桁時代の東 松二郎はチョロさんのお父さん。清水君子はお母さん。国立音大の出身でクラシックから。 | 
 ビル・エバンスの秘蔵っ子のベーシスト。交通事故で25歳で死んだ。今や伝説の人物だ。 | 
 カントリーの歌手でJim Webbと仲がよく”By The Time I Get Phenix”を歌った。ギターソロも凄腕を見せた。 | 芸名はドイツの作曲家エンゲルベルト・フンパーディンクに由来する。イギリス人なのにと思っていた。 | 
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 若くしてこの世を去ったが、「マックザナイフ」や「ラメール」を残して行った。 | 
 4トップスのリードを歌ったが、その歌唱力は彼独特のもので人には簡単に真似は出来ません。 | 
 ”Sunday Morning Coming Dawn”を書いたカントリーの歌手。Dollyがこの歌を教えてくれた。 | 
 原田イサムは実兄。最後の「ゲソの気まぐれコンサート」で一緒の舞台に立った。面白い経験だった。 | 
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 4プレップスというポップコーラスのリダー。2004年のPBSテレビ番組に50年代グループ総出演で、その後、新グループ復活を果たした。 | 
 キングトーンズのリーダーで高音パートのソロで一世を風靡した。Goodnight Babyを思い出します。 | 
 PPMはフォークグループ華やかなりし頃、日本にも来て歌った。3人の中で最初に死んでしまった。フォークも歌ったものです。 | 
 慶應高校からピアノの達人で藝大に進んだ。フィンランドで活動していたが、脳出血で右手が麻痺したが、左手ピアニストとして復活した。 | 
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 ジャズピアノの天才と言われた。昔の店MISTYのハウスピアニストで古いジャズ人間が通ったものだった。 | 巨泉の11PMのサラブレッズは懐かしい。成子坂上のハーモニースクエアの管理人だったので、いろいろな行事に出掛けた。 | 
 ジャズドラマーのレジェンド。88歳で亡くなりました。ゲソの最後のコンサートで一度だけ一緒の舞台を踏みました。 | |
| 1937年(昭和12年)生まれ | |||
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 ジェームス・ボンドの”007 Goldfinger”を歌ったのは彼女だ。もう半世紀も前の話とは若い人には通じません。 | 
 ”Here's To Life”を作詞した。もともとはJoe Williamsが歌った歌だが、シャーリー・ホーンがCDを出してしまった。 | 
 ”Tonight, I Celebrate My Love”は、DOMINANTで昔の娘が歌っていたのを思い出す。男声パートはPeabo Bryson。2025年2月死去88歳、 | 
 ポチャポチャの丸顔でマイクを顔の前で振り回しながら歌った。新しいCDで”This Is All I Ask”を聴いた。ちぇっ、ボチャノバだった。 | 
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 フランス人のハーモニカ奏者。トゥーツ・シールスマンとが両横綱と言われた。マヌエラにゲストで呼んだ。次の年に死んだ。 | 
 独特のスキャットを入れ乍ら歌うキャロル・スローンは人には真似が出来ません。23年1月23日に85歳で亡くなった。 | 
 マイルスのベースとして活動。VSOPにもメンバー。沢チンがNYで一緒にレコーディングした。Jim Hallとも来日。 | 
 美空ひばりはジャズも歌いました。天才ですから・・・。 | 
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 大学先輩の大橋巨泉に見いだされジャズ・シンガー。東宝映画の俳優として14本の映画に出演。日本楽友会の仲間です。 | 
 山本邦山さんと一緒にヘレン・メリルの楽屋に尋ねた。ヘレンと邦山さんをつなげたのが私の知人の奥さん。 | 巨泉とザ・サラブレッズのドラマー。不思議な縁でメンバーだった根市タカオ、杉原 淳とも親しくしてきた。日本楽友会第六代会長。 | 
 Peter Paul and Maryの唯一の生存メンバー。25年程前に六本木のDOMINNTでバッタリ会って昔話をしたことがある。 | 
| 1938年(昭和13年)生まれ | |||
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 代表曲は”At Last”。Harry Warrenの渋い歌だが1960年にリリースしている。私が60年代から歌っている曲だ。 | 
 プラターズの女声。分派して彼女のプラターズを結成して歌っていた。2004年の全米テレビ番組にベッドで出て来た。勿論歌えず。 | 
 年上の女房にピストルで撃たれて死ぬという目に遭った。偶然が重なっての結果だが、映画にもなった。 | 
 本来はカントリー歌手だが「ジャズを歌う」というCDが出て買って聴いた。”You Are So Beautiful”を頂戴した。 | 
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 1960年、ブラザース・フォーの結成メンバーで60年近くリーダーとして続けている。若々しい! | 
 夜が更け始める頃、今は無いINDIGOに現れた。ざわざわ客がいないので、私にショパンとスコットジョプリンを弾いてくれた。 | 
 レターメンを立ち上げ60年を越した。「ボーカル・グループ栄誉の殿堂」を97年に創設した。2019年で現役引退。 | 
 60年代前半、コルトレーンのカルテットでいいピアノを弾いた。2020年3月6日に81歳で死去した。 | 
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 「可愛いベイビー」「ヴァケーション」など誰もが口ずさんだヒットソングを送り出した。日本語の歌詞でも歌っていた。 | Jon Hendricksの愛妻。サッチモの”Star Dust”の演奏部にJonが歌詞を書き、それを2人で歌ったレコードがある。絶品だ! | 元赤坂の「カナユニ」と言えば、食通ならご存知だろう。横田さんにOZSONSは素人にも関わらず呼ばれて歌ってきた。サンビッツが食べたい。 | 
 1963年-1966年のテレビのハワイアン・アイに出ていました。憶えていますか?エディ・フィッシャーのカミさんを2年やりました。 | 
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 60年代のフォークソング・ブームにPPMはどれだけ貢献したことか。2025年1月に86歳で他界した。 | 
 イギリスの有名作家フレデリック・フォーサイスが2025年6月9日に亡くなりました。昔々、マヌエラに現れました。 | ||
| 1939年(昭和14年)生まれ | |||
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 最近の歌手の招聘に関わっているケースが多く、一緒になることが度々。志保沢さん関連で会うのが多くなった。 | 
 ブルージーンズの寺内タケシとは色んな繋がりがあるのです。不思議な縁でした。 82歳で亡くなりました。 | 
 フュージョン系のジャズピアニスト。ジャズ・クルセーダースを結成した。新聞に訃報がデカデカと出てビックリ。 | 
 一度だけの来日の時、聴きに行って旦那ともども仲良くなった。出版譜面には歌詞が無い曲の歌詞を送ってくれた。 | 
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 アメリカに住むジャズピアノだったが若くして死んだ。彼の兄、藝大出身の作曲家が書いたミュージカルに出演した。 | 
 初めてジャズレコードを出したODJBのリーダーNick LaRoccaの2代目。ニューオリンズに来いと言ってくれる。 | 
 Dolly Bakerのライブ応援に来るので友達になり、後には教室に通った。沢田スクールの弟子たちとは長い付き合いだ。 | クラリネット奏者であり、NAMMのPresidentを1980年から務めていたが、現在は引退した。バークリーの名誉音楽博士。 | 
| 50年代に10代でデビュー。ブルーコーツ専属歌手。アメリカに渡りアール・ハインズ楽団の歌手になった。2020年11月27日死去。 | 
 Oh! Carolを歌って大ヒットだったポップス歌手。50年代、60年代とヒットを飛ばした。The Tokensのオリジナル・メンバー。 | 
 「ロックンロールの女王」と呼ばれていた。1985年の”We Are The World”に出たのは見ていたが、他のことは何も知らない。 | 
 学業を終え、空軍に入隊・除隊した後にドゥーワップ・コーラスグループ「マーキーズ」の一員として活動を開始する。 | 
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 ロンドン生まれのポップスシンガー。「この胸のときめきを」はサンレモで有名。”If You Go Away”も歌っている。 | |||
| 1940年代 | |||
| 1940年(昭和15年)生まれ | |||
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 カウント・ベイシー楽団のドラマーだった。2002年、長部正太のCDレコーディングにレイ・ブラウンと参加した。 | 
 アルジャローの歌を初めて聴いたのは、”We Are The World”の放送だった。”Spain”に歌詞をつけたのには驚いた。 | 
 12年前、2007年に来日する時、このサイトで宣伝を依頼された。まだ、SNSが流行る前のいい時代だった。 | 
 映画リオ・ブラボーで「ライフルと愛馬」 をディーン・マーチンとデュエットで歌った。 | 
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 シナトラは息子には歌わせなかったが、娘とは一緒にレコーディングもした。”Something Stupid”は大ヒット曲。 | 
 "Green, Green Grass of Home"が彼の歌だとは何十年も知らなかった。2年先輩のクロージング・テーマだった。 | 
 Shirley Hornの”Here's To Life”に書いた記事が白々しいインチキ記事だと私がレポートした。 | 
 日本人の父とイギリス人の母。上海生まれ。愚連隊上がりだが水原弘バンドでデビュー。 | 
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 蝶々夫人に因む曲”Poor Butterfly”と”Stay”をつなげて歌った。あまりにも素晴らしく、私のレパートリーに。 | 
 80年代から90年代の遊び場DOMINANTで毎週会った。サカエさんが私にリクエストする歌があった。 | 
 ニューオリンズ・フレンチ・クォーターのPreservation Hall Jazz Bandのリーダー。浅草に来たこともある。 | 
 バート・バカラックの曲を専属歌手として歌いました。ホイットニー・ヒューストンは従妹です。 | 
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 シナトラが歌ってヒットした”That's Life”をKelly Gordonと2人で書いて知られるようになった。 | 
 1959年にジョアン・ジルベルトと結婚し、1963年に「イパネマの娘」でデビューした。2023年6月5日に83歳で死去。 | 
 ビートルズのリンゴ・スターです。最年長ですが、解散後もドラマーとして現在になるまで演奏してきました。 | |
| 1941年(昭和16年)生まれ | |||
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 セルメンが登場し、日本でハワイアンをやっていた学生バンドがポップスに転向して行った。最初がブラジル66。 | 
 ”Until It's Time For You To Go”の作詞作曲をしたのは、カナダの先住民だった。インデアンとは初めて出会った。 | 
 ザ・ピーナッツは一世を風靡した双子だった。シャボン玉ホリデーを思い出すだろう。Stardustを聴いたのはこの番組と言われるくらい。その番組で、ホーギー・カーマイケルの伴奏でStardustを歌った。デビューから16年、30代前半の早い引退だった。 | |
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 フォークソングが60年代から70年代にかけてブームが起こりました。このジャズサイトでもフォークもカントリーも書き始めました。 | 
 何度も来日しテレビにも出演している。彼の有名作に「スペイン」があるが、アルジャローが歌詞をつけてしまった。 | 
 30歳になる頃、ラスベガスでコンサートに行って来た。ピンキーが越路吹雪の真似をして歌うがごとく聞こえた。 | 
 ルイジアナママを歌った。大ヒットだった。みんな真似してうたったものだ・・・ロニオリン・・・芝浦工大電子工学科中退。 | 
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 ”Everybody Knows”という誰もが知らない歌をうたった。80年代後半だ。ところが、聴いたら知ってる歌ばかり出てくる。 | 
 オランダの歌手アン・バートンの伴奏はヴァンダイクのピアノトリオだった。日本には根強いファンがいる。 | 
 「スキヤキ」がBilllboard Hot 100で3週連続#1となり、スティーブ・アレン・ショーに呼ばれた。 | 
 マントラのリーダーで、元はマンハッタンのタクシー・ドライバーだった。今は親分のいないマントラが歌ってる。 | 
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 来日時、2回会って仲よくなった。”A Beautiful Friendship”が好きな歌で私が歌い彼が伴奏してくれた。 | ビートルズが出現して世界中がビートルズを聞かされた。そこに現れたのがサイモン・ガーファンクル。歌のうまさは二人の方が上。ギターもサイモンのギターはアコースティックでいい音だった。でも、二人は仲が悪かった。 | 
 3大テノールのプラシド・ドミンゴです。1996年来日、国立競技場で大コンサートでした。 | |
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 フォークソングのジョーン・バエズを忘れていました。60年以上前によく歌っていたのに。83歳になっても現役です。 | 
 サックスの名手として、日本楽友会の理事を2024年6月まで続けてくれた。 ご苦労様でした。 | ||
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| 1942年(昭和17年)生まれ | |||
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 「夕方フレンド」という歌曲を書いた。これをサリナが心を込めて歌ってくれた。「Kuniのために歌う」と言って・・ | 
 マンハッタン・ジャズ・クインテットのリーダー。来日多数。一度はマヌエラで歌伴をやってもらった。 | 
 ”Mr. Bojangles”を書いたカントリーのシンガー。このカントリー・ソングをサミー・デイビスJr.が歌って元歌をミュージカルに変えてしまった。 | 
 ゴスペルの血が流れている。力強い歌を沢山歌い残して行ってくれた。オバマ大統領就任式を今も思い出す。 | 
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 "A Song For You"をアニタ・オデイが歌ってくれた。凄いジャズバラードになってしまった。伴奏も採譜して歌った。 | 
 1年後輩でハワイアンをやっていた。後に、アニメのデビルマンで大ヒット、コマソンを沢山作った。 | 
 ワーナーブラザースのレコード会社Sire Recordの社長。Jimmy Sscotttを蘇らせた人。 | 
 "The Way We 
            Were"をよく歌った。映画「追憶」を見ましたか。ベイブリッジの一方通行を逆にして撮影したのを・・ | 
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 金のかかった音響設備を載せた個人タクシー・・・ジャズタクシーといいました。一度、偶然乗ったことがあります。 | 
 ”Raindrops Keep Fallin’on My Head”で生涯の大ヒット。他の歌は聴いたこともない。78歳で死去。 | 
 ニューヨークっ子のマリーナ・ショウは日本びいきで2000年代以降、毎年来日していた。彼女の落ち着いた歌は大人向きである。2024年81歳で死去。 | 
 ”Here's To Life"という歌をよくぞ書いてくれました。この曲を持ってラスベガスのジョー・ウィリアムスの許に行った。ジョーは死ぬまで歌った。 | 
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 ジミ・ヘンドリックスのページが死んでから54年も経ってから書かれました。地味変って云うんですよね。 | 
 ビーチボーイズのリーダー。アルバム『Surfin’ USA』はジャズ爺でも知っている。あと10日生きると83歳になるところだった。 | 
 2007年にマイルス・デイビスQuintetで名を馳せたHerbie Hancock, Wayne Shorter, Ron Carter, Jack DeJohnetが来日した。 | |
| 1943年(昭和18年)生まれ | |||
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 1990年から2009年まで11回続いた富士通スポンサーの「100 Grate Fingers」という10人のコンサート常連の一人だったがあった。 | 
 80年代に初来日した時聴いて感心した。シナトラを継ぐ歌手になると思った。しかし、色んなことに手を出し、歌の進歩が止まった。 | 
 ”Rainy Night In Georgia"を書いたカントリーのシンガーソングライター。この歌だけでつながっている。他のことは何も知らない。 | 
 イギリスのロックバンド、ローリングストーンズのボーカルとして名高い。ジャズ爺は何も聴いたことがない。何も知らない。 | 
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 スペイン生まれの貴公子。アメリカに渡り大成功を果たす。ナタリーは誰もが聴いたヒットソング。 | 
 名前だけは知っていたが、性別も知らなければ、何を歌ったのかも知らないままの歌手だった。2019年11月に初めて書いた。 | 
 50年前、Country Roadをギターを弾きながら歌った。その後のことは全く知らずだったのをJimmy Webbが思い出させてくれた。 | 
 アメリカのロック・ミュージシャン、詩人。ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、ソングライターとして知られてるらしい。 | 
| 1944年(昭和19年)生まれ | |||
| シナトラの息子は歌わせてもらえなかった。フランクが死んでから歌うようになったが、フロリダで客死した。 | 
 私はサリナにとって日本で一番大切な人間だと思われている。不思議な縁だ。ロンドンにサリナ訪問もした。 | 
 ジュディ・ガーランドが香港で見つけてアメリカに呼んだ。オーストラリア出身の作曲家。シナトラの歌を書いた。 | 
 60年代に「夜霧のしのび逢い」がヒットした。日本に帰化し、智有蔵上人と書く。2022年11月に最後のコンサートだという。 | 
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 ニュージーランド出身のソプラノ。73歳で引退。彼女の表現力は無限大。 | 
 Supremesの可愛い顏した人気者。59年デビューだが69年にソロ歌手に転向。Dreamgirlsというミュージカルが出来た。 | 
 ロックの歌手でゴニョゴニョ歌う。真似したくありません。この写真だけでも「ゴニョゴニョ」って聞こえませんか? | 
 バーバラ・ストライザンドのリハーサルピアノを弾いたことから、「追憶」の"The Way We Were"を作曲した。 | 
| 昔のLamp Lightで出会い30数年、家族付き合いになり、オージーサンズとは、どれだけステージを踏んだのか。 | 南青山にLamp Lightを開いた。80年代半ばに通い始めた。Dolly Bakerに出会って私の音楽人生が変わった。 | 80年代終り頃、テレ朝通りのDOMINANTに連れて行かれた。毎晩のように通った。バンマスが大事にしてくれたから。 | モダネアーズのPaula Kellyの3人娘の2女。長女、マーサが死に、ポーラJr.が死に、3女、ジュリーが生き残った。 | 
| 子供の頃から凄い声で歌っていた。10代前半でレコードを吹き込んでいる。 | |||
| 1945年(昭和20年)生まれ | |||
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 "Have I Told You Lately?"を歌うのを聴いてたまげた。女性のキーで歌っている。80年代終りの年の話。 | 
 一度も日本に来たことがない大物歌手。”The Rose”を歌っているのを知って「へー」だった。勝枝ちゃんの歌うやつ。 | 
 20年くらい前はどんな曲でも難しいイントロを弾いたものだ。ボーっとしてると、調性が分からない。 | 
 イギリスのジャズからクラシックまでの名トランぺッター。007シリーズの全映画で演奏をしていることで知られる。 | 
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 髪の毛が白くあるままを看板とするチームソルトンセサミを結成し慈善パーティを開き、オージーサンズを呼んだ。 | t クラシックもバリバリと弾いてしまう。ただのジャズ・ピアニストではない。85年にチック・コリアとリサイタルがあった。 | 
 プロコルハルムを90年代に再結成し続いている。デンマークでのライブビデオを見て再認識したところ。 | 
 ずば抜けて歌の歌い方を知っている歌手だった。音楽の理論と実際を分かっている数少ない人でした。 | 
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 "Have I Told You Lately?"を書いたアイリッシュのライター。自分でも歌ってレコードを出している。 | 
 いつ頃だったか、ホセの名前がよくラジオで流れてきた。70年代の初め頃、「ケサラー、ケサラ、ケサラー・・・」が流れた。 | 
 60年代、マイルス・クインテットの第2世代のメンバーだった。76年のニューポートJazzFesにVSOPの1人。 | 
 30歳になって芸能界デビューは遅がけのデビューでした。早稲田のダンモ研中退です。 | 
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 訃報が出て、初めて書いた。知っているのは名前だけ。演奏曲も何も見たことが無い。 | 
 70年代にカントリーとKris Kristoffersonと結婚していた。 | ||
| 1946年(昭和21年)生まれ | |||
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 カントリー歌手だが、70年代に"I Will Always Love You"でヒット。90年代にホイットニーがカバーして大ヒット。 | 
 日本でアイドル歌手のはしり。芸能界の空気が合わず、スタジオ・シンガーになって久しい。オージーサンズと家族同様。 | 
 ジュディ―・ガーランドが母親。89年、シナトラ・サーミ―と3人で来日した。本来ならディノが来るはずだったが、リハをすっぽかし外された。 | 
 3人娘の1人だが、いろいろな縁繋がりで一緒に歌ったりもした。髪を染めない4人のオバサン、チームソルトンセサミのメンバー。 | 
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 名前だけ聞いたことがあるが、今まで何の情報も知らずにいた。ウェストコーストの歌姫だそうだ。 | 
 "McArthur Park"が彼との結びつきになった歌だ。問題の多い歌だが、不思議な魅力がある。 | 
 68年以来、サンフランシスコで活動している。来日中に暇が出来るとマヌエラに遊びに来るので合流する。 | 
 You Are So Beautifulの作曲者。2006年に59歳という若さで死んでしまった。 | 
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 名トランぺッターの1人。前田憲男&Wind Breakersのメンバーだった。2021年4月に死んだ。 | 
 3大テノールのホセ・カレーラスです。1996年来日、国立競技場で大コンサートでした。 | 
 カーペンターズは妹のカレンが32歳で死んで終わってしまった。兄は長生きするだろう。 | 
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| 1947年(昭和22年)生まれ | |||
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 明治大学から中日ドラゴンズ、現役引退後は、中日、阪神、楽天でコーチ・監督で活躍した。膵臓がんのため70歳で若死にした。 | "Arthur's Theme (Best That You Can Do)"は1982年のアカデミー賞。シナトラが"You And Me"を歌ってヒットせずだが、私の持ち歌。 | 
 キューバの老人ミュージシャンを世界に知らせてくれたロックのギタリスト。ブエナビスタ・ソシアルクラブは大ヒット映画になった国際フォーラムでコンサート。 | 
 沢チンが生きている頃、小谷さんのピアノが好きだった。自分のパーティによく呼んで弾かせていた。74歳で2022年6月1日に死去。 | 
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 ニューオリンズに住む歌手だが来日した時、聴きに行った。力強い歌を歌ってくれた。ジョージアのヴァースを歌った。 | もんプロダクションの代表。ジャズの招び屋として、70、80年代は大物を、晩年はわかG好みのタレントを呼んでくれた。 | 96年に札幌の店に行って以来、応援してきた。人間が出来ているので長続きしている。心のこもった歌を聴かせる。 | 
 ワイルドワンズの加瀬は私の同級生だった。それで鳥塚と知り合った。家族ぐるみの付き合いになった。 | 
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 麹町でスタジオNOTAを経営しているジャズドラマー。毎月、大勢の仲間が集まる。日本楽友会の 事務局を務めている。 | 
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| 1948年(昭和23年)生まれ | |||
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 何でも歌いこなす器用人。GSからPops畑を通り、ジャズ歌手になってVocal大賞まで獲ってしまった。 | 
 一度だけパーティに呼ばれ来日した。一晩だけライブがおまけにあった。ピアノ伴奏できたのだが、歌に痺れた。 | 
 昔、ドナ・サマーのLPを買った。"McArthur Park"を聴くためだった。ディスコサウンドは素晴らしい。 | 
 ポインター・シスターズの次女の訃報が出ました。74歳でした。長女だけが生き残っています。 | 
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 オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手。1970年代から1980年代半ばにかけて高い人気を博した。22年没。 | |||
| 1949年(昭和24年)生まれ | |||
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 90年代中頃、タンゴコンサートがメルパルク・ホールであった。映画音楽から3曲歌わされたことがあった。 | 
 昔、DOMINANTで佐藤さんが、♪Don't Go Chainging, to try and please me …と歌ってた。頭にこびりついている。 | 
 2012年の暮に初来日。聴きに行って仲良くなった。それ以来、来日の度に会いに行く。ブロッサムの弾き語りと同じく可愛い。 | 
 1985年、We Are The Worldは世界中に鳴り響いた。Dianna RossとEndless Loveで知られた。 | 
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 沢田ボーカル教室の講師で多くの生徒を教えた。ドラマーの清水 閏さんの伴侶。スイング感は沢チンを凌ぐ。 | 
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| 1950年代 | |||
| 1950年(昭和25年)生まれ | |||
| 八城一夫門下のピアニスト。 神楽坂もりのいえで演奏しています。オージーサンズの面倒を20年見て来ました。 | 
 クインシーが名づけ親。パティはクインシーを「オジサン」と呼んでいた。クインシー80歳の来日時には連れられて来た。 | 
 世良一家の太鼓。オージーサンズとは縁が深い。何度、一緒にやったか数えられないくらいだ。不思議なコレクター。 | 
 ド演歌歌手がNYのBirdlandでライブをやって話題になった。それでジャズアルバムの2枚目が発売、売れるらしい。73歳で死去。 | 
| 音楽生活50周年の年に肺がんで亡くなった。まだ、70歳になったばかり。沢チンの弟子で仲良くしていた。 | 
 スティービー・ワンダーのページを改めて書きました。USA for Africaを思い出します。 | 
 チック・コリアのSpainを歌うのを聴いてひっくり返ってしまった。何なんだあれは?フュージョンだって。 | 
 Cole親子は若死に親子で、お父さんは45歳、娘は65歳です。親子の歌を重ねたUnforgettableは大ヒットでした。 | 
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 カーペンターズの妹、1970年代にヒットを出し続けたが、1983年に過食症・拒食症を繰り返し心不全で若死にした。32歳だった。 | |||
| 1951年(昭和26年)生まれ | |||
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 ローラ・フィジイの"Don't It Make My Brown Eyes Blue"が色っぽ過ぎるので、クリスタルの歌を聴いた。これも色っぽい。 | 
 R&Bの歌手だが"Tonight 
            I Celebrate My Love For You"をDominantでみんなが歌うのを聴いて知った。 | 
 "Don't It Make My Brown Eyes Blue"をカントリーの作者の歌を聴いた。クリスタルもローラ・フィジイも色っぽくて危険だった。 | 沢田スクールの発表会でピアノを弾いてくれたのが最初の出会い。"McArthur Park"なんて知っていてくれた。 | 
| ジャズ博士は日本では丸山1人。初めて会った時から「スイング理論」を話題に盛り上がった。マヌエラに呼んで歌わせた。 | 何でも独学で一人前になると言うベーシスト。壊れたOSを1人で修理してしまった。うちの大学院生より賢い。 | Arthur's Themeでアカデミー歌曲賞をバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンとともに受賞。 | 
 気仙沼に生まれ、気仙沼に住み続けるジャズ・ドラマー。10何年か前に減量をしてスマートになった。ビックリだった。 | 
| 1952年(昭和27年)生まれ | |||
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 "How Do You Keep The Music Playing?"をラジオで聴いて彼の存在を知った。クインシーの秘蔵っ子。 | 
 お父さんの代からのジャズ・ミュージシャン。23年前にHPの相互リンクのリクエストが来た。平原綾香のお父さん。 | 
 根市タカオを通じて、バレンタイン前夜に、二子玉川高島屋のホールでの大ライブで伴奏をしてもらって仲良くなった。 | 
 マントラのティム・ハウザーのタクシーに乗ったことが縁となった。リーダーが死んで、興味が半減してしまった。 | 
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 世良一家の宴会幹事役だった。法政の学生時代からプロ活動を始めた。オージーサンズの合宿にも参加した。 | 
 ジャネット・サイデルのパートナーだったがオランダで客死した。トムがジャネットを呼んだのか二人ともあの世だ。 | 
 ジャズでは珍しくハモンド・オルガン奏者。渋谷スペイン坂にBabytalkというライブハウスを経営していた。 | 
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| 1953年(昭和28年)生まれ | |||
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 細野のライブ・スケジュールは私のサイトで上げている。30年以上、Giibson ES-175の音色を聴いてきた。 | 
 彼女の弾き語る3オクターブの声にはビックリするしかない。目は見えないが、天は凄い声を与えた。 | 
 90年代後半、初めて出掛けて行って歌ってしまった。今は無い恵比寿のサンマリノだった。よく出会うピアノだ。 | 
 田辺君の師匠。ウェス・モンゴメリー流の演奏を聴かせてくれる。知り合いの息子が習いたいと言うので紹介した。 | 
| 80年代のサーカスのメンバーだったことがある。DOMINNTの仲間だった。スガナミ楽器でボーカルの先生。 | |||
| 1954年(昭和29年)生まれ | |||
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 幼稚舎からの後輩でジャズ・ジャーナリストで記事を書くのが仕事。慶應アートセンターに「油井正一アーカイヴ」を開設した。 | 
 ヨウちゃんが新聞に記事を書きました。それでこのサイトに初めて登場しました。初めて顔を見ました。 | 
 Diana Krallは彼の3人目の奥さん。イギリス人でロックの分野で、ジャズ爺は彼をよく知らない。 | 
 なぜかライブハウスでよく出会う。ピアノが青木弘武や本田富士旺のことが多いからだろう。彼の名器をご存知か? | 
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 別人ナンシー・ウィルソンです。ロック系のバンドHeartを率いてます。ギターの達人です。 | 沢田靖司の弟子になりたいとメールが来た。慶應の教授だった。ビックリ仰天。 | ||
| 1955年(昭和30年)生まれ | |||
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 2001年に初めて会い、その後、メール交換をするようになった。62歳の若さで亡くなった。残念でしょうがない。 | 
 90年代、西麻布にINDIGOありし頃、毎週、潮のベースで歌ったものだ。もう、20年近くご無沙汰してる。 | 
 舞台から降りてきて、客の膝の上に座って1曲まるまる歌う歌手なんて彼女しか見たことが無い。 | 
 バークリー出身のピアニスト、作編曲家。OZSONSとは何かと縁が深く、フルバンドの編曲もお願いした。 | 
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 ミシシッピ州ジャクソンの生まれ。彼女の存在を知ったのは90年代だが、随分偉くなった。 | サンフランシスコのジャズ歌手で来日の時に会って話をした。ライブにも行った。恐るべきテクニックを持つ。 | 
 俳優の渡辺裕之の特技はジャズ・ドラムスの演奏だった。沢田靖司とライブをやったことがあった。 | 18歳の時、単身アルゼンチンに渡航しフリオ・アウマーダにバンドネオンを師事。2006年51歳で死去。 | 
| 祖父はジミー原田、父は原田イサム。親子3代のジャズドラマーとして生まれた。本名は原田俊一。 | 
 明治大学出身のジャズピアニスト。昔、清水 閏トリオにいた時歌わされたことがあった。2025年4月1日に死去70歳。 | ||
| 1956年(昭和31年)生まれ | |||
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 キャンディーズのスーチャンは90年代終わり頃、金石投手主催のゴルフ会に出てきた。55歳で若死にした。 | 
 フィリッピンから来たヴォーカリスト。日本で歌う女性歌手の中ではぴか一。1982年から日本に住む。 | 
 Paul Robiのプラターズで20年、1999年から新生ミルス・ブラザースで歌ってきた。死ぬなんて若過ぎだよ。 | 
 ミルス4男Donaldの次男、父と2人で83年から99年まで歌い、その後、エルマーと続けた。 | 
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 マヌエラでゲストデーを始めた2003年に彼女を呼んだ。まだ、40代の若い歌手だった頃だ。ポスターが残っている。 | 
 デトロイト出身。2002年から大阪に現在は東京に住む。"Here's To Life"に驚かされた。 | 
 力強い歌を唄うだけでなく、不思議なスキャットはアフリカのスキャットとか?? | 
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| 1957年(昭和32年)生まれ | |||
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 あのチェット・ベーカーに大事にされた日本人は川島さんしかいないだろう。ペットも歌もチョット・ベーカーと言われます。 | 慶應の後輩で、学生時代はモダンジャズ研究会だった。沢田靖司のベースになって知り合った。よく一緒にやった。 |  |  | 
| 1958年(昭和33年)生まれ | |||
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 Jackson Fiveがテレビに出てきたのはいつだったか。小さな坊やがリードを歌った。50歳で死んだ。 |  |  |  | 
| 1959年(昭和34年)生まれ | |||
| ピアノの八城一夫は邦義の父親。若い時から先輩ミュージシャンに取り上げてもらった。坊やが還暦になる。 |  |  |  | 
| 1960年代 | |||
| 1960年(昭和35年)生まれ | |||
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 初来日が1990年、30歳の時だった。その頃から有名だった。2009年にCotton Clubでライブを聴き、たまげた。 | 沢田門下生の歌手。自分で遅咲きのジャズ歌手と言っている。これまでCDを3枚リリースしている。 | 野口久光といえばジャズ・レコードのライナーノーツでお馴染みだった。久和君は息子でピアニストです。 |  | 
| 1961年(昭和36年)生まれ | |||
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 話題になったのは2009年のテレビだった。見かけと歌う歌のギャップがあり過ぎて有名になってしまった。 | 
 オバマ大統領はジャズソングの歌詞を就任演説で引用しました。気が付いた人はいますか? | 
 我々にとっては若々しすぎるトランペット。18歳の時にアート・ブレイキーに抜擢されて、一編に有名になった。 | 
 笑うセールスマンでなく、笑うギターと称される。オージーサンズ・コンサートのバックをやってくれた。 | 
| 1962年(昭和37年)生まれ | |||
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 ドイツの変わった若者。クラシックぽい歌い方で、ユダヤ人が書いた歌を選んで歌う。 | 
 慶應工学部の20年後輩。松下電器に勤めたが、音楽活動が許されていた。ストライド・ピアノは一流。 | 
 伴奏に中牟礼貞則と市川秀男を呼んで、マヌエラでライブを企画した。素晴らしかった。 |  | 
| 1963年(昭和38年)生まれ | |||
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 80年代に大人気を博したが、その後、薬でおかしくなった。2000年頃に落ち目になって48歳で風呂で溺死。 | 
 世良一家のサックスで知り合った。オージーサンズ・コンサートにはバックを務めてくれた。ゴルフはプロ並みの腕。 | 
 90年代からマヌエラに毎週来てベースを弾いている。30年の付き合いになる。 |  | 
| 1964年(昭和39年)生まれ | |||
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 90年代にCDを出した頃はよかったが、NYに出て腕利きのプロデューサーがのし上がらせてしまった。生意気でダメ。賢いと思えない。 | 
 海兵隊で三沢基地にいた頃、相撲を習った。体重400ポンド。それがジャズ歌手になった。2人で掛け合いで歌った。若死にして残念。 | オージーサンズ・コンサートのバックをやってくれた世良一家のトランペット。お客様の評判がすこぶる良かった。サクスは右近だしね。いいコンビ。 | ニューヨーク在住の音楽プロデューサー。日本のオレンジリボン運動をサポート。ゴスペル音楽を通してDV撲滅を訴える活動を開始。 | 
| 1965年(昭和40年)生まれ | |||
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 深川の駄菓子屋さんの息子。ライブで喋りたがるので、ギターを聴きたい人には困る。落語より面白いのに。2025年1月に還暦。 | 
 慶應楽友会の後輩。若過ぎて知り合っていなかったのが、Harvey Thompsonでつながった。ついにシンガーソングライターになった。 |  |  | 
| 1966年(昭和41年)生まれ | |||
| "Lady Day at Emerson's Bar & Grill"というビリーの歌と晩年の話を綴ったミュージカル作品の主役に抜擢されました。 | |||
| 1967年(昭和42年)生まれ | |||
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 名前だけしか知らないままの有名人。中川ヨウが新聞でニューアルバムを紹介した。それがきっかけで1ページが書けた。 | 
 ボードビリアン小野栄一の娘。ジャズから日本歌謡までレパートリーの幅は恐ろしく広い。スリー・ビックリーズも面白い。 | 
 名前だけ何処かで見たことがあるらしい。女優で歌手とのこと。 | |
| 1968年(昭和43年)生まれ | |||
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 ジプシー・スイング・ギターはジャンゴの系統だが、凄いテクニックには驚くのみ。ローゼンバーグ・トリオは来日した。 | 90年代の終わり頃、Dollyのライブで踊るのを見た。13年のブランクの後、再会した。深い繋がりのタップダンサーだ。 | 
 ライブハウスではない赤坂マヌエラにゲスト・ボーカルで3回も歌った。四谷のBullly'sには、彼女の日に、まこGと出掛けたもんだ。 | 
 名前だけしか知らなかったが、今日(2021/8/18)はじめて聞いてぶったまげた。見事なVideoを見てしまった。 | 
| 1970年代 | |||
| 1970年(昭和45年)生まれ | |||
| タンゴ歌手。20年前は南米諸国でボレロを歌い有名人になり活躍した。名古屋、大谷大学出身。 |  |  |  | 
| 1974年(昭和49年)生まれ | |||
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 彼の愛妻は沢田靖司門下の寺嶋(旧姓)一恵。毎年、来日しツアーを始めた。ピアノの腕は保証付き。 |  |  |  | 
| 1978年(昭和53年)生まれ | |||
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 ウクライナのゼレンスキー大統領。Alejandro Manzanoという歌手とそっくりで、ゼレンスキーが歌っていると間違い書き込みが氾濫中。 | |||
| 1979年(昭和54年)生まれ | |||
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 2001年デビューという若い歌手だが、翌年には来日した。それで名前だけ知っていた。 | 初めて聴いてびっくりピアニスト!佐藤允彦の弟子だという。 | 初めて聴いてびっくりバンドネオン奏者!小松亮太の弟子だという。 | |
| 1980年代 | |||
| 1984年(昭和59年)生まれ | |||
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 2009年の100Fingersに25歳最年少で来日した。Junior Manceに着いてライブをしに来た。 |  |  |  | 
| 1985年(昭和60年)生まれ | |||
| マルサリスに「傑出したボーカリスト」と絶賛され、Lincoln Center Jazz Orchestraのツアーに17歳のときから参加することになった新星歌手です。 | 親子3代のジャズ一家。飯田ジャズスクールの先生。年に似合わない大人のボーカルで歌う。一度、聴いて驚いた。 |  |  | 
| 1986年(昭和61年)生まれ | |||
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 ウクライナのゼレンスキー大統領にそっくりさんで、動画がゼレンスキーが歌っていると間違えられている。 | |||
| 1990年代 | |||
| 1990年(平成2年)生まれ | |||
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 中川ヨウのプロデュース・ライブで聴きました。Emaは、もともとミュージカルの歌手だそうです。幼少期にデビューしています。 | |||
| 2000年代 | |||
| 2000年(平成12年)生まれ | |||
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 Britain's Got Talentに6歳で登場した天才少女。高樹レイは彼女を知っていました。流石! | |||
| 2010年代 | |||
| 2011年(平成23年)生まれ | |||
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 世界にその名を轟かす天才バイオリニスト、HIMARI(本名:吉村妃鞠)。慶應幼稚舎では孫娘と同級生とのこと。その存在を初めて知りました。 | |||