歌をつくる人にまつわる話
The Story of Songwriters

(62) クインシー・ジョーンズ来日 We Are The World

80歳になったクインシー・ジョンーズが来日した。32年ぶりだという。ついこの間だと思っていたが、1985年にアフリカの飢餓を救おうとアメリカのポップス歌手たちを一堂に集めて、”We Are The World”をプロデュースした。それまで若いと思っていたクインシーも大御所になったのだと思った。

その収録の模様がテレビで朝まで放映され、リハーサルから本番まで、延々とテレビに釘付けだった。すべての出演者はクインシーの一声で集められたものだ。一番若いのはマイケル・ジャクソン、一番年配者はハリー・ベラフォンテだった。

ビデオを一番下に追記した。
 


Quincy Jones(1933- )

クインシーのライブがブルーノート東京で行われると聞いて「おそらく最後だろうから」とチケットを買おうとしたら、「遅かりし由良の助」、25,000円のチケットが売り出した途端に完売だという。あとは国際フォーラムAで2日公演があるという。もう1回は広島だそうだ。

東京ドームとか武道館とか、ここ6000人のホールは大きすぎてあまり好きじゃない。出演者の顔も見えやしない。会場に設えた大スクリーンを皆が見ている。変な光景だ。でも、話の種、仕方がないので行ってきました。

休憩を挟んで4時間超のコンサート、前半はわれわれは名前も知らない日本人の亀田何とかいうベース弾きの若者が組んだ日本人によるトリビュートだという。出てくる歌手も一人だけ名前(絢香)を見たことがあるだけで、後は見たことも聞いたこともない人ばかり。お子様ランチがヘレン・メリルやマイケル・ジャクソンを歌ってましたよ。ああ、ゴスペラーズというグループも出てきました。クインシーの名前すら知らない連中が出てきて、クインシーのトリビュートにどういう脈絡があるのだか理解に苦しみます。

第1部のMCを兼ねた亀田某は紹介する歌手を「次のアーティストは・・」と耳障りな言葉を発します。昨年秋に亡くなった昭和4年生まれの芦田ヤスシさんは「俺たちはアーティストなんてもんじゃねぇ」と。骨のあるジャズメンは「アーティスト」なんて呼ばれると気持ちが悪いのだ。アーティストって日本語で何ていうのだろう。訳すのも憚る。

昔のコンサートでは前座が第1部を務めたものです。お目当ては第2部に出てくるわけです。今時は流行らないスタイルです。思い出しました。トリオロスパンチョスが初来日した時の前座はアイ・ジョージだった。これで有名になったのだった。

クインシーが出てくるのは第2部で、出演するバンドも向こうから連れてきたリズムセクションを交えた実力派の若手たちでした。名の知れた歌手としては、秘蔵っ子パティ・オースティン、ジェームス・イングラムといったところです。他にも目の青い人がいましたが、私が知るような人ではありません。そうそう、聖子ちゃんが出てきたのにも驚きました。松田聖子は一番歌が上手だった。

お客さんはすぐ立ち上がります。クラシックのコンサートではあり得ませんが、ポップスのコンサートでは「スタンディング何とか」といいます。これも特別な時ならいざ知らず、日本人も何処で覚えたのか何でもかんでも立ち上がります。邪魔でしょうがありません。かといって「済みません見えないから座ってください」なんて言ったら、つばでも吐かれそうで大人しくしているほかない。今夜のお客さんはクインシーを神様のように思っているファンが大勢来ているのです。日本人とは不思議な人種です。

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古いお話をします。クインシーの名前を知ったのは、ヘレン・メリル(vo)とクリフォード・ブラウン(tp)の定番、”You'd Be So Nice To Come Home To”の編曲(1955)でだった。後にあのイントロでないと歌えないと言う人が沢山いたくらい有名なイントロとなった。イントロの定番というのも面白い。ヘレン初来日でこの歌を歌ったのを聴いたのが最初だった。「紐育の溜息」を聴かされてきた。41年後にブルーノート東京の楽屋で会ったとき、「41年前に聴きに行きましたよ」というと「Oh! it's yesterday」ときた。

クインシーは1957年からパリに音楽理論・作曲の勉強・修行に出かけているが、ミミ・ペランという女性歌手と一緒にLes Double Sixというアルバムをプロデュースし、このLPで何曲か作曲している。Double Six of Parisというグループは後のSwingle Singersという8人編成のコーラスのの前身となるグループである。Swingle Singersはバッハのコラールを”ダバダバ、ダバダバ”とやってしまったグループだが、ダブルシックスはフランス語とスキャットを織り交ぜたものすごいVocaleseだった。ミミ・ペランはLambert Hedricks & Rossを聴いて一旦解散したグループを再編成し、4枚くらいアルバムを出している。


The Double Six of Paris, 1960

上の写真はミミ・ペランの率いるDouble Six of Parisです。ピアノを弾いているのが若き時代のクインシーです。左端はウォード・スウィングル、隣がミシェル・ルグランの姉、クリスチャンヌです。6年前にルグランンと一緒に来日しました。右側の生きのいいマドモアゼルがミミです。(2013/8/6)

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USA for AFRICA”We are The World”では、曲と歌詞はライオネル・リッチ―とマイケル・ジャクソンが書いた。ハリー・ベラフォンテは最年長者だった。この企画は大成功を収めた。


Harry Belafonte
(1927- )

Lionel Richie
(1949- )

Michael Jackson
(1958-2009)

当時のポピュラー界の歌手たちが総動員されて大合唱となった。実に感動的な場面であった。そんな頃はインターネットなんてない時代だった。つまり、Eメールもないのだ。最近になってYou Tubeに沢山のビデオが上げられて、誰もが見られるようになった。そんなYou Tubeから1本ご覧に入れよう。

 

(2016/9/2)


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