ジャズと小噺
Jazz and Topics

(81) 切手になった楽人達

後輩の阿波田君の切手集めに影響されてのことです。60年振りの切手話です。

各項の色付きの名前をクリックすると関連詳細ページを新たに開きます。すべて、わかGが書いた「ジャズにまつわる話」の中の1ページです。外部にリンクしているのではありません。

リンクがない人の切手は、わかGがたまたま記事を書いていない人です。後日、書き足していこうと思っています。

  

Adolph Sax

ベルギー人でサックスを1840年代に発明した。フランスで特許を取った。

Al Capone

喧騒の20年代、シカゴを取り仕切ったギャングの親分、アル・カポネ。

日本に山口組の組長の切手ってあるかしら??

Al Jolson

1927年、初のトーキー映画「The Jazz Singer」で黒塗りの顔で黒人シンガーを演じました。

”Blue Skies”や”Mammy”を歌っています。

Alan Jay Lerner & Frederick Loewe

彼らが大成功を収めたのは、1956年の「My Fair Lady」です。”I Could Have Danced All Night”を世界中で知らない人はいないでしょう。

Alfred Newman

20世紀フォックスで音楽部長として活躍し、作品は第二次世界大戦時のニュース映画を含め、200本以上にのぼる映画音楽界の伝説の巨匠である。1937年から1970年まで、アカデミー賞に実に45回もノミネートされ、そのうち9回受賞した。

Amalia Rodrigues

ポルトガルにはファドがある。アマリア・ロドリゲスはNo.1の歌手。東京にもよくやって来た。一度、渋谷のパルコ劇場でのコンサートに行った。感動ものだった。

Andres Segovia

スペインのギタリスト。音楽史研究者やギター奏者から「現代クラシック・ギター奏法の父」と称される。今日のクラシック・ギターとして知られるようなデザインを編み出した。これは、より良い木材と、ナイロン弦の利用が特徴的である。音響効果を改善するためにギターの形状も変更された。この新型ギターは、それ以前に世界各地で使われてきたギターに比べて、より大きな音が出せるようになった。

Andrews Sisters

Boswell Sistersの後を受けて、1932年に結成し40年代から50年代にかけてヒットを飛ばし、映画などでもビング・クロスビー、グレン・ミラーなどとも共演しています。Boswell Sistersのハーモニー・スタイルを完全に受け継いでいます。

日本のスリー・グレイセスがAndrewsの曲、"Bei Mir Bist du Schön"や"Rum & Coca-cola"をよく歌いました。

Antonio Calros Jobim

ボサノバはジョビンが始めた。それまではブラジルはサンバだった。今時、サンバなんて言っても通じないよ。

Antonio Vivaldi

ヴィヴァルディの「四季」は誰もが聴いたことがある弦楽協奏曲です。

クラシック気狂いの後輩が原稿を書いてきました。

Aretha Franklin

アレサ・フランクリンは60年代の初めにポップスを歌わされたのだがヒットは無かった。しかし、ゴスペルを前面に出して歌うようになって真価を発揮した。アレサはジャンルを選ばない。何でも歌える。後に「ソウルの女王(Queen of Soul)」と呼ばれる。

Armando Manzanero

メキシコの大作曲家。”It's Impossible”はペリー・コモがヒットさせたが、”Yesterday I Heard The Rain”をお気に入りで、歌い続けてきた。

Artie Shaw

アーティ・ショウは、ニューヨーク出身のジャズクラリネット奏者。

「ジャズ界における最も素晴らしいクラリネット奏者」の一人とグッドマンと並び称され、アメリカの1930〜40年代のポピュラーなビッグバンドのリーダーとして君臨した。

Arturo Toscanini

スカラ座やメトロポリタン等の音楽監督を歴任し、20世紀前半を代表する指揮者とされている。ロマン主義のスタイルを脱却した演奏法は音楽演奏における新即物主義に分類され、ライバルのフルトヴェングラーと対極をなした。

 

Audrey Hepburn

「ティファニーで朝食を」は見ましたか?朝食に何を食べたかご存じですか?

”Moon River”を弾き語るのを見てください。そう、イギリス人です。アメリカ人と思ってる人多いです。

Barack Obama

オバマ大統領は就任式の演説でDorothy Fieldsの作詞、Jerome Kern作曲の”Pick Yourself Up”の歌詞を引用しました。

Barbra Streisand

昔からよく歌わせてもらった”The Way We Were”は映画「追憶」の主題歌でした。

Benny Goodman

1938年1月16日のカーネギー・ホールでのベニー・グッドマン楽団のジャズ・コンサートはあまりにも有名です。また人種偏見の強い時代に自分のカルテットに2人の黒人を雇っていました。ライオネル・ハンプトン(vib)とテディ・ウィルソン(pf)です。もう一人の白人はジーン・クルーパ(dr)です。

Bernard Herrmann

主に映画音楽で活躍したアメリカの作曲家である。アルフレッド・ヒッチコック監督作品(『めまい』、『北北西に進路を取れ』など)や『市民ケーン』、『ケープ・フィアー』、『タクシードライバー』(遺作となった)など多くの映画作品に音楽を提供した。

Bessie Smith

ジャズが生れるころに、ブルースの女帝(Empress)とよばれた偉大なシンガーです。

Bette Midler

両親がニュージャージーからハワイに移住したユダヤ人で、昭和20年ホノルル生まれだという。一度も日本に来たことがない大物歌手と書いてある。新聞などのニュースに出てこなかったのだろう。勿論、BlueNoteのお知らせにも出ていない。

Bill Evans

マイルス・デイビスに雇われた唯一の白人とは、ピアノのビル・エバンスBill Evansのことです。1958年にエバンスのピアノの師匠がマイルスに紹介したのです。

Bill Haley

1950年代中期に興るロックンロール・ブームの先駆者の1人。ヒット曲の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はロックンロールの古典。

Billie Holiday

ビリー・ホリデーは、後に出るエラやサラなど多くの歌手に影響を与えた偉大なジャズ歌手ですが、彼女はまずベッシー・スミスのブルースを受け継ぎ、やがてレスター・ヤング、そしてルイ・アームストロングらの影響を強く受けます。

Billy Joel

昔、DOMINANTで佐藤さんが、♪Don't Go Chainging, to try and please me …と歌ってたのを思い出す。”Just The Way You Are”では、ビリー・ジョエルの大ヒットだ。

 

Bing Crosby

ホワイト・クリマスはビング・クロスビーが一世を風靡したクリスマス・ソングです。アービン・バーリンが1941年に映画「Holiday Inn」のために作りました(実は真っ赤な嘘)。翌1942年、ビング・クロスビーがJohn Scott Trotter Orchestraをバックにレコードが出ました。

Bix Beiderbecke

Bix Beiderbeckeは厳格な家庭に生まれました。3歳のときからピアノを弾き始め神童と言われていました。

Bob Dylan

1960年代に初めにBob Dylanがフォークソング・ブームに乗って登場してきた。わかGが20前後の頃の話だ。

耳に残ったのは”Blowin' In The Wind”だった。

Bob Hope

イギリス人だがアメリカの映画俳優。腰抜けシリーズは子供の頃に見に連れていかれた。100歳まで生きた。カミさんのドロレスは102歳まで。

夫婦で202歳というのは、他にいるのだろうか?

Brigitte Bardot

ブリジット・バルドーは過激な動物愛護で有名です。

Bruce Springsteen

38年前、1985年のUSA for Africa ”We Are The World”に出てきた印象深い一人。それしか知らない。

Buddy Bolden

ジャズの創始者とよばれる男がいます。床屋でゴシップ新聞「ザ・クリケット」の編集発行を兼業とするコルネット吹き、バディ・ボールデンという男です。創始者という意味は、即興演奏をはじめてやりだしたということです。

Buffy Sainte-Marie

”Until It's Time For You To Go”の作詞・作曲はBuffy Sainte-Marieというカナダ生まれの原住民、つまりインデアンである。

Calamity Jane

ミズーリ生まれの実在の女性です。着ている服も喋る言葉も男と一緒で、腰には拳銃、酒は飲むは、噛みタバコをくちゃくちゃやるは、だったということです。"Calamity Jane"とは、インデアンとの戦闘中に傷つき、ジェーンに命を助けられたCaptain Eganから頂戴したニックネームです。

Carol Channing

ご存知のハロードリーは、1964年にブロードウェイ・ミュージカル”Hello, Dolly!”でCarol Channingが主演女優でDollyを演じ、トニー賞をもらっている。

次の年にサッチモがあの”Hello, Dolly!”を歌って世界中の人が聴くことになった。

Charles Aznavour

フランス、シャンソン界の最後の巨人。

Charles Mingus

今年はCharles Mingusの生誕100年の年だという。ミンガスの変わった考えや行動はよくセロニアス・モンクと引き合いに出される。1943年にルイ・アームストロングのバンドに入り、活動の場を広げた。

Charlie Parker

ビバップをはじめた一人。パトロンのNica夫人のホテルの部屋で34歳で死んだ。

Chet Baker

1988年5月13日、オランダのアムステルダムのホテルの窓から飛び降り自殺て死亡したのですが、誰かに突き落とされたのではないかという話を信じている人が多いのです。

 

Clint Eastwood

ローハイドは毎週かじりついて見ていました。ロディ役ですよ。彼はJazz通です。Dolly Bakerが「一緒に写真を撮って来たわよ」って送ってきました。

Coleman Hawkins

1920年代に入って「サックスの巨人」コールマン・ホーキンスがサックスをジャズに持ち込んだといわれます。"Body and Soul"の名演奏を残しています。

Cole Porter

2005年正月には、コール・ポーターの生涯を歌で綴ったミュージカル映画「五線譜のラブレター」が公開されました。父親はSam Porter、母親はKate Cole、両親の苗字をとってコール・ポーターというわけです。

Constance Bennett

Harry Warrenが書いた名曲”The Boulevard of Broken Dreams”を、1934年の映画「ムーラン・ルージュ」でConstance Bennett(1904-1965)がVerseから歌っています。 これが最初です。この歌をパクったのが鈴木道明です。裁判となり最高裁まで行きましたが、「偶然の産物で無罪」となりました。アホらしい話だった。

Count Basie

1927年にカンザス・シティにやってきてBennie Moten(1885−1935)楽団に入りました。1935年にベニー・モーテンが亡くなり、カウント・ベイシー楽団となります。

Clyde McPhatter

The Driftersは1953年の結成ですが、そのメンバーの入れ替わりは激しく、40人ほどのメンバーがドリフターズの名の下に歌ったといいます。それで、現在でも存続していますが、オリジナルのメンバーは全て死んでしまいました。

Danny Kaye

昭和34年の映画で「レッド・ニコルスと彼のファイブ・ペニーズ」の伝記で、ダニー・ケイとサッチモの掛け合いは楽しかったです。40年前のサッチモの台詞がまだ耳に残っています。

日比谷映画劇場に毎日通い、ついに9回も見てしまいました。

Dean Martin

シナトラ一家のディノ、映画「底抜けコンビ」のディーンと二つの顔が浮かんでくる。

Debbie Reynolds

デビー・レイノルズって可愛らしい歌手が現れ”Tammy”が聞こえてきた。1957年だったらしい。エディ・フィッシャーとオシドリ夫婦と言われていたところに、割って入ったのがエリザベス・テーラーでした。59年に離婚の憂き目に遭いました。わたしはデビー・レイノルズの味方でした。

Diana Ross

Supremesでは、ダイアナ・ロスだけが前面に出て、それが元でのトラブルが多かった。こんなことを題材にしたブロードウェイミュージカル「Dreamgirls」が1981年から演じられ、2006年には映画化された。わかGはこの映画を見に連れて行かれた。

Dimitri Tiomkin

すべての日本人が知っていたのは『ローハイド』というテレビシリーズです。毎週、お茶の間で日本人家族はこの番組を見ていたのです。1959年に始まり1965年まで217回続いた長編です。フェーバーさんの名前は忘れませんよね。ロディ役をやっていたクリント・イーストウッドはジャズ通。

Dinah Shore

ダイナ・ショアが戦後間もなく「ボタンとリボン(Buttons and Bows)」を歌いました。昭和23,4年頃の話です。神田須田町の交差点の近くの「畜音堂」というレコード屋で買いました。当時は78回転のSP盤しかありません。

Dinah Washington

ダイナ・ワシントンは1963年12月14日、酒を飲んだ上にダイエットの薬を飲み過ぎて39歳で死んでしまったのです。飛び切りのおばかさんです。

Dizzy Gillespie

ディジー・ガレスピーは1940年頃、チャーリー・クリスチャンやセロニアス・モンクらと共に、リズムを重視し、より自由なアドリブを追求した新しいスタイルのジャズを探求するようになり、これこそがモダン・ジャズの礎となるビバップの萌芽だったのです。

Django Reinhardt

ジャンゴ・ラインハルトはアメリカの外で主として活動した偉大なジャズ・ギタリストです。ジプシーの子としてベルギーで生まれ、パリのジプシーキャンプで育ちました。

 

Dolly Parton

ホイットニー・ヒューストンが歌った”I Will Always Love You”は、カントリー歌手のDolly Partonが1974年にレコーディングし大ヒットとなった歌だが、そのカバーである。

Domenico Modugno

「ヴォラーレ」を歌ったオジサンです。

Don Cornell

I'm Don Cornell, performer of Mama Guitar.

「私はMama Guitarを歌ったドン・コーネルです」という書き出しでメールをくれました。このHPが公開されて間もない頃です。

Donna Summer

昔、ドナ・サマーの歌う”McArthur Park”がディスコ・バージョンで素晴らしいものだった。

Doris Day

ドリス・デイはドイツからの移民の家庭に生まれました。本名はDoris Mary Ann Von Kappelhoffという厳めしい名前です。オーディションで歌った"Day After Day"からとって、オーケストラのリーダーだったBarney RappによりDoris Dayとつけられたという話です。

Dorothy Fields

スタンダードの名曲にDorothy Fields作詞・Jimmy McHugh作曲という歌が沢山あります。Jimmy McHughはIrving Millsの音楽出版社のマネージャーをしていました。”I'm In The Mood For Love (1935)”は誰もが歌ったでしょ。

Eartha Kitt

♪ウースクダラギデリケンオードダビリアンムール♪って10歳の頃歌っていた。江利チエミも歌った。

Ed Sullivan

エド・サリバンショーを「江戸裁判所」と書いていた。懐かしい番組だ。

Edward Kennedy "Duke" Ellington

デューク・エリントンは楽団のリーダー、アレンジャー、ピアニストとしてだけではなく、いい歌をたくさん作曲してくれました。 Take The "A" Trainはエリントン楽団のテーマ・ソングです。この他にも"Mood Indigo," "Solitude"もテーマ・ソングとして使っていました。

Edith Piaf

エディット・ピアフの名前を知ったのは、1951年に「愛の讃歌」を越路吹雪が歌い、ラジオで聴いて素晴らしい歌だと思い、後年、”Hymne a L'Amour”というEdith Piafの歌だと知ったときです。

「谷間に三つの鐘が鳴る」の話から、オリジナルはエディット・ピアフが1940年に歌い始めていることが判明しました。

Elizabeth Taylor

エディー・フィッシャーとデビー・レイノルズは、1955年に結婚し、おしどり夫婦だったのですが、そこに割り込んできたのがエリザベス・テーラー。不倫騒ぎの末、1959年に離婚し、リズと結婚します。

このスキャンダルで、エディー・フィッシャーもエリザベス・テーラーも多くのファンを失ってしまいました。挙句の果てに、1964年にエリザベス・テーラーとも離婚しました。

Ella Fitzgerald

エラ・フィッツジェラルドが1935年、チック・ウェッブ楽団からデビューする話は各所にありますが、はじめ、ウェッブはエラを雇うのをすっぱりと断ったのです。

そのたった4年後、チック・ウェッブは脊柱結核で34歳という若さでこの世を去ってしまいます。エラは楽団のリーダーとして2年近く残り、その後、ソロ・シンガーとして独り立ちすることになるのです。

Elvis Presley

リズム アンド ブルースと呼ばれるジャンルからRock 'n' Rollという音楽が1950年代に生まれました。プレスリーの登場は世界中衝撃的でした。

プレスリーの銅像は世界中、10ヶ所に13体の銅像があります。

Engelbert Humperdinck

同姓同名のドイツの作曲家がいます。フンパーディンクはこの人の名前を自分の芸名にしたのです。

この切手はオリジナルのドイツのフンパーディンクです。

Erroll Garner

"Misty"を作曲した話は誰でも知ってるが、左手と右手を巡る話はVocalにも通じる話で興味深い。

Ethel Merman

「ブロードウェイの女王」と呼ばれた。「アニーよ銃をとれ」で、Irving Berlinが作詞作曲した「ショウほど素敵な商売はない」はマーマンの代表曲となった。

Ethel Waters

エセル・ウォーターズは明治29年生まれの古い古い歌手で女優でもあります。ブルースの女帝と言われたベッシ―・スミスやマ・レイニーらと同じ時代にチェスター、PAで生まれた。後に出てくるジャズシンガーのビリー・ホリデー、エラ・フィッツジェラルドらは大正1桁生まれである。

Eubie Blake

"Memories Of You"は、Eubie Blake作曲、Andy Razaf作詞による名作中の名作なのだが、これまでにこのサイトで何故だか忘れ去られていたのだ。

Shuffle Alongは黒人初のミュージカル作品。

Fats Domino

ファッツ・ワラーというストライド・ピアノの弾き語りの2代目といってよい、ニューオリンズR&Bのロック歌手です。

”Blueberry Hill”のスローロック版が代表曲です。

Fats Waller

1920年代、3大ストライド・ピアノというと、Luckey Roberts、Willie "The Lion" Smith、Thomas "Fats" Wallerという名前が出てきます。Wallerはピアノの弾き語りの元祖といわれます。最大のハーレム・ピアニストだったのです。”I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter”をヒットさせました。

Frances Langford

1913年生まれのアメリカの映画女優。切手にはFrancisと間違って印刷されている。

1935年のミュージカル映画「Every Night at Eight」で、”I'm In The Mood For Love”を歌った。彼女のSignature Songとなった。

Frank Loesser

Tin Pan Alleyの作詞・作曲家でブロードウェイ・ミュージカルを手掛け、Irving BerlinやHoagy Carmichaelとも組んでいる。私が高校生の頃、”On A Slow Boat To China”、”Heart And Soul”がお気に入りだった。

Frank Sinatra

フランク・シナトラの登場となります。18歳のころ、ビング・クロスビーの歌を聴いて歌手になろうと思ったのです。1939年にハリー・ジェームス楽団の専属歌手としてデビューします。

翌40年、最高の人気を博していたトミー・ドーシー楽団に引き抜かれ、シナトラはここで初の「アイドル」と呼ばれる歌手になるのです。実際のところは、自分からオーディションを受けに行って専属になったのです。

Frank Sinatra, Dean Martin, Sammy Davis Jr.

Rat Packは、1955年、俳優ハンフリー・ボガードが飲み友達を集めてグループを結成した。

1987年に、フランク、ディノ、サーミ−の3人で再結成したが、90年にサミーは喉頭がんで死去、95年にアルコール漬けのディノが最後にフランクが98年に亡くなって全てがお終いとなった。

Franz Liszt

ピアノのリストが日本製の切手にありました。ビックリです。

Franz Shubert

シューベルトの子守歌でも聴いて寝ましょうか?

♪ねーむれー ねーむれー・・・♪

Fred Astsire and Ginger Rogers

さて、Swing Timeという映画では、Dorothy Fields作詞、Jerome Kern作曲の”Pick Yourself Up”という歌をGinger Rogers とFred AstaireがPick yourself up; dust yourself off; start all over againとタップで踊るシーンがあるのですが、Barack Obama大統領は2009年1月20日の就任演説の中でDorothy Fieldsのこの歌の歌詞を引用しました。

 

 

Fryderyk Chopin

ショパンといえばピアノ曲、ピアノ曲といえばショパンです。ご存知、ショパンの“幻想”ポロネーズにも英語の歌詞がつけられてスタンダードのレパートリーに入りました。”I'm Always Chasing Rainbows”です。

藤原義江

帝国ホテルが住まいだった日本オペラ歌手。テレビが出来た頃の紅白で歌っているのを見た記憶です。藤原歌劇団というのがありました。

Gene Kelly

サイレント映画時代がトーキーの時代に代わろうとする1920年代を描くミュージカル「雨に唄えば」で、Gene Kellyが主題歌”Singin' In The Rain”を歌いながら踊る場面を1950年代に見た方がいると思います。

Gene Krupa

1938年1月16日のカーネギー・ホールでのベニー・グッドマン楽団のジャズ・コンサートはあまりにも有名です。クラシックの殿堂にジャズがはじめて乗り込んだのです。

George Gershwin

1924年、弱冠26歳の作曲家ジョージ・ガーシュインは"Rhapsody In Blue"を世に出しました。これはジャズを演奏会形式にかえたもっとも早い試みのひとつだといわれています。

Giacomo Puccini

プッチーニのオペラ「蝶々夫人」は1904年に初演されています。

蝶々さんを題材としたジャズソング"Poor Butterfly"はプッチーニの第2幕に出てくるデュエットのTuttiからの引用です。John GoldenとRaymond Hubbellが1916年に出しました。同じ蝶々夫人の「ある晴れた日に」を下敷きにした"Stay"という歌があります。こちらは1964年になってから作られました。わかGはその2曲を続けて歌っています。

Ginger Rogers

フレッド・アステアと名コンビのダンサー、懐かしいの一言。

Glenn Gould

FB切手オジサンの阿波田君が送って来た昭和7年生まれのカナダ人ピアニストGlenn Gouldです。

とてつもない天才ピアニスト。「とてつもない」とは? その演奏を聴けば、その意味は誰にも一目瞭然。リズム/テンポ/アクセント……どれもが強烈で躍動感に満ち、痛快とさえ感じられる。「ジャズ風」などと評されることもあるが、もっとも彼にはそういった意識はない。と書かれている。

Glenn Miller

スイング時代は1944年グレン・ミラーが飛行機事故で死亡し、やがて2年後には終焉を迎えることになりました。映画「グレンミラー物語」をご覧になった方はよくご承知でしょう。実際のところは戦争により社会が疲弊しビッグ・バンドの経営が難しくなってきたのです。

Gregory Hines

1989年には映画『タップ』でサミー・デイヴィスJr.、サンドマン・シムズ、ジミー・スライド、バニー・ブリッグスらタップマスターと共演し、主演を務めた。2003年8月9日、癌により57歳で死去。

Hank Williams

カントリーのキングとはHank Williamsのことだ。持病の二分脊椎症のため背中に激痛が走った。それを和らげるための鎮痛剤やアルコール、モルヒネのため身体は深刻な状態に陥っていたのだという。Hankは29歳でこの世を去ってしまった。

Humphrey Bogart

シナトラ一家がメンバーだったRat Packの初代リーダーだったハリウッド俳優。我々が見た映画は「カサブランカ」だった。”As Time Goes By”を初めて聴いた映画だ。

Harold Arlen

ナイヤガラの滝の町、バッファローに生まれました。高校を中退してニューヨークに出てきます。ハーレムのコットン・クラブでもラグタイム・ピアノを弾いていたということです。その後、30年代から40年代と、テッド・ケラーやジョニ−・マーサーらとコンビを組んで、スタンダード中のスタンダードをめちゃめちゃに書いています。

Harry Belafonte

1956年に「バナナボート・ソング」がリリースされた。ハリー・べラフォンテのデビューである。日本では翌1957年に発売になった

当時、ジャマイカの「カリプソ」として売り出されたが、カリプソはトリニダードで生まれたスタイルで、本来はジャマイカ民謡の「メント」の歌なのだそうだ。アメリカでは「メント」と言っても通じないので「カリプソ」ということにして売り出したのである。

Harry James

90年代だったか、1939年のハリー・ジェームス楽団でのレコードがReader's Digest社からCDに復刻して出されました。われわれが知っているシナトラの声とはまったく違って聞こえます。これはシナトラだといわれても分からないかもしれません。

Harry Truman

カウント・ベイシーが活躍したカンザスの出身。禁酒法時代にも、ここだけは悪徳政治家ペンダーガストがいて滅茶苦茶だった。だから皆が酒を飲みに来た。そのペンダーガストに応援されて、後には大統領にまでなりました。

Hector Berlioz

ロマン派のベルリオーズは「幻想交響曲」が代表作です。

Henry Mancini

Johnny Merserと60年、61年と連続して”Moon River”、”Days of Wine and Roses”でオスカーを獲得しました。

Herbert von Karajan

今日のORの授業では、フォン・カラヤンのことを話そうと思って「カラヤンは知ってるか?」と聞くと、誰も知らないらしいのです。カラヤンはテープに録音した演奏を聞いて気に入らないところがあると、「何小節目から何小節目まで」と言って、指揮を始め録音します。このテープを先ほどのテープの悪かった部分を切り取り、はりかえてしまうのです。

Hoagy Carmichael

"Stardust", "Georgia On My Mind", "Skylark"とくれば、だれもが「うん、うん」とうなづくばかりでしょう。実に多才な人で,ピアノの弾き語りでも有名だったのです。時にはトランペットも吹いたといいます。 映画俳優もやるのです。

Howlin' Wolf

これまで何十年の間、全く無縁のブルース歌手。初めて知りました。

Ira Gershwin and George Gershwin

両親ははじめ兄のアイラにピアノを習わせようとしましたが、よくあるケースですが弟がメキメキ上手になりお株を奪ってしまったのです。兄は沢山の作詞をし、弟が曲を書きました。

Irving Berlin

"Alexander's Ragtime Band"(1911)は彼を有名にしました。"Cheek To Cheek," "All By Myself, " "White Christmas," "There's No Business Like Show Business," "I Love A Piano," "Easter Parade"などもおなじみの歌だと思います。

石原裕次郎

1956年に、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の時に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、同映画作品の端役で映画デビューした。

James P. Johnson

ストライド・ピアノの創始者はJames Price Johnson。1910年代だから10年早い。

Jane Fonda

まだまだ若い女優の切手まであり驚きだ。

Jazz

ジャズとは・・・

Joe DiMaggio

マリリンモンローと結婚し、新婚旅行は日本だった。

John Fred Coots

「サンタクロースが街にやって来る」は余りにも有名だ。わかGは地味な”You Go To My Head”が昔々から好きで歌って来た。

Jelly Roll Morton

コード記号を使って、メロディのバックの和音を表すのはジャズ特有の知恵であります。これを考えたのはジェリー・ロール・モートンです。クラシックの人たちはコード記号で即興的に演奏する訓練を受けていないので、すべての音符を楽譜に書かないと演奏できないのが通例です。

Jerome Kern

ジェローム・カーンの作品の中で、私だけかもしれないが、珍しいと思うのは、”Smoke Gets In Your Eyes”である。この歌もOtto Harbuckとの作品だ。1933年にGertrude Niesen(1911-1975)という歌手が歌ったのが最初だという。誰もがプラターズで聴いたことでしょう。

Jim Morrison

アメリカのロック・ミュージシャン。ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、ソングライターとして知られるらしい。わかGは知る由もない。

Jimmy Carter

ホワイトハウスでジャズ・コンサートを初めてやったのがカーター大統領です。

Jimmy Dulante

大方の人が知らない”Old Man Time”という歌を最初にレコーディングした「でかっ鼻」という人です。教養溢れるコメディアンなのです。

古そうな切手の上にJimmy Dulaanteのサインがしてるものが売りに出されていたのです。99ドルですって。

Jimmy Rushing

1929年にモーテン楽団に入りましたが、モーテンが亡くなって、1935年以降は後を継いだベイシー楽団で歌い続けました。

Jimmy Smith

ハモンド・オルガンの名手はJimmy Smithです。ギターのWes MontgomeryとのDuoは有名です。

Joaquin Rodrigo

スペインの盲目の作曲家ホアキン・ロドリーゴが1939年に作曲したクラシック・ギター協奏曲「アランフェス協奏曲」は3楽章からなりますが、第2楽章のオーボエの旋律がよく知られています。

Joe "King" Oliver

オリバーはルイ・アームストロングの先生だったことでも有名です。コルネット奏者で1922年に"King Oliver's Creole Jazz Band"をシカゴで結成しました。そのときにルイ・アームストロングをニューオリンズから呼びよせました。

Joe Cocker

マヌエラのヤマハホールでのコンサートであるおじさんが”Unchain My Heart”を歌うという。多分、殆どの人はレイ・チャールズの歌で知っているところだが、おじさんは「ジョー・コッカーVersionで」と言った。

 

Johann Sebastian Bach

ヨハン・セバスチャン・バッハ「平均律クラヴィーア曲集(Das Wohltemperirte Clavier / Well-tempered Clavier)」とういう曲集が売られています。しかし、平均律と翻訳したのは誰の仕業なのでしょうか。

John Coltrane

大学生の頃、日本でもコルトレーンの名前が知られました。2年後輩がコルトレーンのファンで、私のところに遊びに来るときは必ずコルトレーンのLPを抱えて来ました。

John Denver

”Country Roads”をギターを弾きながら歌った。爺の証拠か?

自ら操縦するプロペラ機で墜落し死亡した。53歳だった。

Johnny Cash

Jerry Lee Lewis(1935-2022)、Carl Perkins(1932-1998)、Elvis Presly(1935-1977)、Johnny Cash(1932-2003)は、1950年代のロックンロールの4人のスターだ。 私は当時、プレスリーだけは知っていたが、あとの3人は知る由もない。ロックンロールなんて馬鹿にしていた少年だった。エド・サリバンやミッチ・ミラーと同じだ。

Johnny Mercer

ジョージア州サバナ生まれの卓抜した作詞・作曲家です。”Mr. Americana”と呼ばれるジョニー・マーサーの詞はウィットにとみ、ロマンティックで美しいのです。ヘンリー・マンシーニと”Moon River”, ” Days Of Wine And Roses”など知らない者なし。

Joni Mitchell

昔から名前だけは聞き憶えがあるが、写真を初めて見て女性だと知ったという訳。愚かにもジョニー・ミッチェルと思っていた。1943年生まれで私より若いし、ジャズ歌手の範疇にはちょっと外れていた所為か、何のインフォメーションにも触れぬままだった。

Jose Carreras

3大テノールを国立競技場に呼んだのは寺島さん。

Joseohine Baker

ユニークな人生を送ったジョセフィン・ベーカーを思い出した。私が、まだ中学生の頃、1954年に来日してニュースになった。当時はどういう人物か何も知らないし、興味もない時代だった。

Wikipediaを見ると、ジャズ歌手・女優と書いてある。

皆さんは、ジョセフィン・ベーカーの歌を聴いたことがありますか?

Joseph Haydn

交響曲の父」と呼ばれたハイドンです。

Judy Garland

「OZの魔法使い」はOZSONSの源です。

Jules Verne

ジュール・ヴェルヌの「80日間世界一周」が映画になり、主題歌が”Around The World”。オージーサンズはコンサートの主題曲だった。

Julio Iglesias

「All Keio Tango Concert」のプログラムに、「黒い瞳のナタリー(Nathalie)」が入っていた。これを聴いて思い出した歌手がいる。名前が出てこない。内田 宏に訊いた。
「フリオ・イグレシアスだよ」
おー、スペインの歌手で80年代にアメリカに移住し、超有名なラテン歌手となった男だ。

Julius Caeser

ジュリアス・シーザーの言葉"VENI VIDI VICI" は、余程の愛煙家でも気が付かぬかも知れませんが、フィリップ・モリス社の"Marlboro"という煙草の箱を見ると、その中央、王冠と馬をあしらった同社の紋章の下部に、小さく書き込まれていました。

 

 文楽

昭和20年代の噺家は凄い人ばかりいました。六代目春風亭柳橋、五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵、八代目桂 文楽、三代目桂三木助なんて名前ご存知かなぁ。

Kid Ory

1919年にKid Oryは"Original Creole Jazz Band"というバンドをサンフランシスコで結成しました。1922年には"Spike's Seven Pods of Pepper Orchestra" というバンド名で黒人バンドとして初めてジャズ・レコードを出しました。

Kim Novak

"Pal Joey"はRodgers & Hartが37年に書いたブロードウェイ・ミュージカル、57年に映画化されました。映画の邦題が「夜の豹」。この映画の頃のキム・ノバークはじつに美しかったです。

たしか"My Funny Valentine"は彼女がリバイバルさせたのです。

Kiri Te Kanawa

ラフマニノフの「ヴォカリーズ」の話になった。ニュージーランドのソプラノ、Kiri Te KanawaのYoutubeを見つけた。美しい声だ!

古賀政男

代々木上原の井之頭通りにそびえる古賀政男の御屋敷が懐かしい。「酒は涙か溜息か」なんて知っているのは古過ぎるか?

古今亭志ん生

スタンダード・ジャズ好きのオジサンは古典落語が好きです。同じ話を何度聴いても面白いのです。共通点があります。

Kris Kristofferson

”Sunday Morning Coming Down”というカントリーの歌を書いた。Dolly Bakerは私に歌い続けてくれた。

Kurt Weill

マック・ザ・ナイフの最後の一節は「あのマッキーが、街に戻ってきたんだ!」

Lafcadio Hearn

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は1877年にニューオリンズに移り、10年程住んでいました。クレオールの生活などを書いています。

Lena Horne

97年頃でしたか。赤坂に住んでいたドリー・ベーカーが「リナ・ホーンが航空券を送ってくれたから、ニューヨークに行ってきます」といって出かけていったことがあります。多分、80歳の誕生パーティだったような気がします。

Leonard Bernstein

1957年のブロードウェイ・ミュージカル「Westside Story」は1959年の「Sound Of Music」と並んで大ヒットとなり、60年代に映画にもなり大衆にも知られた代表的なミュージカルとなった。

NYフィルの指揮者です。

Leopoldo Federico

ブエノス・アイレスでアルゼンチン・タンゴを聴いてきた。レオポルド・フェデエリコ楽団だった。初めて聴く生のタンゴ、お尻が浮き上がりました。

Lester Young

1933年にカンザスシティに移り、カウント・ベイシー楽団で活躍した。

Li'l Hardin Armstrong

1924年にルイと結婚しました。大変にインテリジェントあふれる人で、King Oliver's Creole Jazz Band の作曲・アレンジをしていました。

その後、2人は1938年に離婚することになりますが、終生よき友人として付き合っていたということです。

Lionel Hampton

ベニー・グッドマン・カルテットで超有名。

ハンプトンの”Stardust”の名演奏は後々まで話題になった。

Lionel Richie

”Endless Love”は、1981年にライオネル・リッチーが作詞作曲し、ダイアナ・ロスとデュエットで歌い大ヒット作となった。同名の映画『エンドレス・ラブ』の主題歌であり、アカデミー主題歌賞にノミネートされた。

Little Richard

1957年に”Lucille”というロックンロールのレコードが出て買って来ました。未だに憶えています。高校2年生の頃に「ルシーヤ ユ ウォン ドゥ ヨ クック クィール」なんて変な英語で真似したのを思い出してます。 

Lorenz Hart

Richard Rodgersとの名コンビは「Rodgers & Hart」と呼ばれ、ハートが49歳で亡くなるすこし前まで続き、30年代から40年代のはじめまで、数々のスタンダードとなった名曲を世に送り出しました。

Louis Armstrong

ルイの音楽を聴いて「ジャズとは何なんです?」と聞くのは野暮というものです。理屈というものは、学者とか評論家が後からすべてこじつけるものなのです。ルイの音楽をジャズという定義もあるくらいです。

Louis Prima

ルイ・プリマはニューオリンズ生まれのトランぺッター、ボーカル、バンドリーダーで活躍したTrad Jazzの有名人で、New Orleansのジャズショップでサイン入りの写真などが出回っていたのをよく見た記憶がある。

Luciano Pavarotti

寺島忠男というプロデューサーが3大テノールを日本に呼びました。6年かかったという話でした。

Ludwig van Beethoven

ベートーヴェンのお陰で音楽の試験が免除になった経験がある。「第九」ですよ、第九。1958年、慶應義塾100周年には「第九」を演奏した。

Lynn Bari

1941年の20世紀FOX映画「SUN VALLEY SERENADE」のためにHarry WarrenとMack Gordonのコンビが書き下ろした曲の一つが”I Know Why”という渋い曲である。映画でLynn Bariが歌うのだが「口パク」だった。

'Ma' Rainey

ベッシーの先生格のブルース歌手、「ブルースの母」がいました。Will 'Pa' Raineyと結婚して、'Ma' Raineyと呼ばれるようになった。

Madonna

マドンナの存在は知っている。それだけ。

Mahalia Jackson

”Amazing Grace”がアメリカに渡ってきて最初のレコーディングはマハリア・ジャクソンというゴスペル・シンガーだった。1947年である。それで、アメリカ全土に広まったのだ。マハリア・ジャクソンは「ゴスペルの女王」と呼ばれる。

Marilyn Monroe

モンローの2回目の結婚はヤンキースのジョー・デイマジオ、新婚旅行は日本だった。

お泊りは、古い建物の頃の帝国ホテルです。社長が犬丸一郎さんのお父さん徹三氏の頃です。

Marlene Dietrich

”Just A Gigolo”という1920年代の歌がある。映画では、M.デートリッヒが心に沁み込んでくる”Just A Gigolo”を聴かせる。誰もが泣けてくる名唱だ!何度聴いても素晴らしい。さずがMarlene Dietrichだ。

Marvin Gaye

ポップ・ミュージックの歴史に残るソウル・シンガーの一人なんだそうだ。

Max Steiner

オーストリア生まれのアメリカ合衆国の映画音楽作曲家。”Gone With The Wind”を作曲、映画の音楽も担当した。

Meredith Willson

”Till There Was You”を作詞作曲した。まこGがお史とデュオで歌ったのを思い出す。

Michael Jackson

USA for AFRICA”We are The World”では、曲と歌詞はライオネル・リッチ―とマイケル・ジャクソンが書いた。ハリー・ベラフォンテは最年長者だった。この企画は大成功を収めた。

マイケルの踊りはユニークで、「Bad」などサミー・デイビスJr.が真似したもんだ。辛くて「年取り過ぎた・・・」と言っては直ぐに止めた。

2009年、50歳で死んだ。

Mildred Baily

Mildred Baileyは所謂スイング・バンドに先駆けて「スイングの女王(The Queen of Swing)」、「Rockin’Chair Lady」、「Mrs. Swing」などの愛称がある。言うまでもなく「King of Swing」はベニー・グッドマンです。1951年、ミルドレッドは44歳の若さで亡くなった。

Miles Davis

バップからクールへ、そしてHard Bopへ、最後にはフュージョンへと変身を遂げます。とにかくマイルス・デイビスはルイ・アームストロングの後継者と言われる巨人でした。

三波春夫

リベリア製の三波春夫です。

南野陽子

これも別の国グレナダの南野陽子です。

美空ひばり

天才です。”Again”を日本語で歌いました。

宮城道雄

「春の海」を聴いたことが無い人はいません。大晦日から新年になるとこの曲が聞こえてきました。

Mona Lisa

ナット・キング・コールの”Mona Lisa”が素晴らしいのはGordon Jenkinsのオーケストラ伴奏が素晴らしいからです。

Muddy Waters

ブルース・シンガー、ギタリスト。シカゴにおいてエレクトリック・ギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、シカゴ・ブルースの形成に大きな足跡を残したことから、「シカゴ・ブルースの父」と称される。

Nana Mouskouri

日本でよく聴かれた”Amazing Grace”はギリシャ人のナナ・ムスクーリ、Nana Mouskouri(1934- )の美しい歌でした。テレビCMでもよく流れたのはこのレコードで全世界で売れたのだそうだ。

Nancy Reagan

レーガン大統領夫人です。大統領就任式でシナトラが”Nancy”を歌いました。憶えている人はいますか?わたしはテレビで見ていました。ビックリしました。

Nat King Cole

日本ではキングコールの”Stardust”は一世を風靡したと思っていたのだが、TV番組「シャボン玉ホリデー」のテーマ曲となったザ ピーナッツの”スターダスト”が日本人の耳には残っているらしい。

Nick LaRocca

1917年2月26日に、初めてジャズのレコードがVictorによってレコーディングされ、3月7日にリリースされました。Original Dixieland Jass Bandです。息子のJimmyが後を継いでいます。

Niel A. Armstrong

1969年で、アポロ11号のニール A. アームストロング船長(1930- )が、7月20日に人類として初めて月面に第一歩を踏み出し、「この一歩は小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」との名文句をはきました。

Nina Simone

人種差別を逃れてフランスに、そして、わかGの一番大事な”Mr. Bojangle”を歌った。サミーとは違うカントリー風の歌い方です。

Olivia Newton-John

イギリス生まれの歌手で幼少のころメルボルンに移住。10代の頃に歌いだした。1966年に英国への帰省中に最初のシングルを録音し、1971年には最初のソロ・アルバム『If Not For You』を発表した。

Oscar Peterson

Duke Ellingtonに「鍵盤の皇帝(Mahraja of the Keyboard)」と呼ばれ、みなに愛された。

Paul Anka

1957年、ポール・アンカは16歳の時に”Diana”を書きデビューしました。翌58年、高校3年の修学旅行は18クラス900人が北海道旅行しました。札幌のすすき野の辺りに「ジャズ喫茶」があり、われわれで占拠してしまいました。銀座のアシベ風のジャズ喫茶でした。同級生の佐野功太郎が「わかやま、歌え・・」でステージに上がり、歌ったのが”Diana”でした。

Beatles

ビートルズです。ズートルビーではありません。

Paul Robeson

1927年、映画「ショーボート」の最初の主演をしたのはアメリカを代表する黒人バス歌手、ポール・ロブスンです。”Ol´ Man River”を聴いたことがありますか?Youtubeで探しなさい。

Perry Como

日本でも人気番組だったペリー・コモ・ショーがテレビで放映されていたのは1959年頃です。当然,モノクロの番組です。

Placido Domingo

3大テノールを国立競技場に呼んだのは寺島さん。

Pyotr Ilyich Tchaikovsky

チャイコフスキーで御座います。

Pythagoras

ピタゴラスは、2つの音の周波数比が簡単な整数の比になるとき、協和することを発見しました。数学的にシンプルなものが美しいと感ずるのは音楽に限ったことではありません

Ray Charles

”Gerogia On My Mind”はレイ・チャールズの生まれた1930年にホーギー・カーマイケルと作詞・ステュアート・ゴレルによって書かれました。やがてジャズとブルースのスタンダードとなりました。多くの日本人が最初に耳にしたのは、レイ・チャールズの1960年に出たレコードです。

Richard Rodgers & Oscar Hammerstein II

”Oklahoma!”、”South Pacific”、”The Sound of Music”は最も有名なミュージカルですが、ローレンツ・ハートが亡くなった後、ロジャースの旧友だったOscar Hammerstein II とのコンビで書いたものです。

Robert Leroy Johnson

伝説的なブルース歌手として知られ、その後のブルース・ミュージシャンのみならず、ロックやブルース・ロックのミュージシャンに多大な影響を与えた。

Sammy Davis Jr.

サミーの初来日から最後の来日まで全て見に聴きに行った。サミーの歌った歌を13曲採譜した。決して易しくはない歌ばかりだった。

三遊亭円生

昭和20年代の噺家は凄い人ばかりいました。六代目春風亭柳橋、五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵、八代目桂 文楽、三代目桂三木助なんて名前ご存知かなぁ。

Sarah Vaughan

Stephen Sondheimが1973年に書いたブロードウェイ・ミュージカル”Little Night Music”の中に、”Send In The Clowns”という難しい歌があります。それをサラがピアノ一本の伴奏でいとも軽々と唄います。聴いてみる値打ちのある一曲です(SARAH VAUGHAN "I've Got Good", Le Chant Du Monde, France, 1991)。

Scott Joplin

スコット・ジョプリンは1899年に”Maple Leaf Rag”を出版し有名になり、ラグタイム王とよばれます。この楽譜の出版に関しては面白い話があります。ジョプリンはいくつかの曲を作ってある音楽出版社に持っていったところ、別の曲”Original Rags”を買ってくれました。しかし”Maple Leaf Rag”がはじかれてしまったのです。

Sergei Rachmaninoff

Vocalise(ヴォカリーズ)というクラシックの声楽の練習法があります。セルゲイ・ラフマニノフの「Vocalise・ヴォカリーズ」作品34の14(1915年)が有名です。

Sidney Bechet

黒人でもフランス人との混血はクレオールと呼ばれ、奴隷時代にも白人並みの有産階級としてあつかわれていたのです。ベシエは小さな子供のころからクラリネットが上手で神童と呼ばれていた。

Sophia Loren

「イルカに乗った少年」は、昭和9年生まれのソフィア・ローレンがギリシャ語で歌った歌だ。

英語では”Boy On A Dolphin”。ギリシャ映画だと思っていたが、ギリシャでロケしたアメリカ映画だった。

Stephane Grappelli

ジャンゴ・ラインハルトの相棒でジプシー・スイングのヴァイオリニストで名演奏を残している。

ジャズ・ヴァイオリンといえば、現在でもこの人の名前が最初に出てくる。

Stephen Collins Foster

今の人、フォスターなんて知っているのかなぁ・・・わかGが小学生のころ、おおスザンナ、スワニーリバー、オールドブラックジョーなんて英語の歌詞のまま口ずさんだものだ。思い出すと懐かしさが込み上げてくる。名曲ばかりです。

Stephen Sondheim

73年に書いたLittle Night Musicというミュージカルの中に"Send In The Clowns"という曲が私のお気に入りなのですが、12/8拍子の曲の部分、部分に9/8拍子の小節が入ってくる難曲です。

みなさんの耳に残っているのはウェストサイド・ストーリーの"Somewhere"でしょうか、"Tonight"ですか。いい歌ですよね。

Steve Allen

Steve Allen Showは50年代にエド・サリバン・ショーとともに大ブレークしたバラエティ番組でした。そのスティーブ・アレンはレイ・ブラウンの”Gravy Waltz”のソング・ライターとしても知られていますが、”Everybody Knows”という小洒落た歌を80年代後半に書いています。

Stevie Wonder

”For Once In My Life”は、1965年にRonald Miller (1932-2007)とOrlando Murden (1925-1994)によって書かれた歌で、トニー・ベネットが1967年にヒットさせた名曲である。しかし、世の中では「これはスティービー・ワンダーの歌だ」と思っている人が一番多いのである。

滝 廉太郎

滝廉太郎の「荒城の月」を歌ったことのない人はいないでしょう。生まれは東京ですが、大分日出藩の出身です。

Theronious Monk

モンクはこれからバップの時代に突入していくのですが、独自の演奏スタイルを崩すことなく、その性格も通常ではなく、変人ともいえる行動をとりました。"Blue Monk"というシンプルな曲がありますが、ヴォーカリーズでも唄われています。

Thomas Jefferson

第3代アメリカ大統領です。何故、このジャズサイトに出て来るのでしょう・・・。

Tina Turner

1939年11月26日、テネシー州Nutbushで生まれました。80年代の終わり頃からスイスに居を移したようです。1985年のUSA for Africa”We Are The World”で歌っていたのは、今でも憶えています。その時が初めてだったのです。

Tommy Dorsey & Jimmy Dorsey

1934年にDorsey Brothers楽団、1935年、喧嘩ばかりでTommyが飛び出す。そして楽団はJimmy Dorsey楽団となる。Tommy Dorsey楽団は別に結成される。1954年、和解してDorsey Brothers楽団に戻った。Jimmyが1つ違いの兄貴。

Toots Thielesman

トゥーツ・シールスマンはアメリカで有名になりましたが、ベルギー生まれでアメリカに移民し、ベニー・グッドマン、ジョージ・シアリング、クインシー・ジョーズらと共演しています。

Udo Jurgens

ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」って知っているでしょ?オリジナルを書いて歌っているのが、オーストリーのウド・ユルゲンスです。弾き語りもします。

Van Morrison

”Have I Told You Lately That I Love You?”を書いたアイリッシュの作曲家。Rod Stewartが歌って広がった。札幌のスージー黒岩が歌ったのを聴いたのが最初だった。

Vera Lynn

第2次世界大戦中、イギリス軍が戦っているエジプト、インド、ビルマの戦地に慰問に出かけました。彼女は「イギリス軍の恋人」と呼ばれるようになったということです。そこで必ず歌うのが”We'll Meet Again”です。彼女が歌って聞かせるだけでなく兵士らと大合唱になるのです。

Victor Herbert

Victor Herbertの作曲”Kiss Me Again”はご存知でしたか?やはり若いシナトラ朗々と歌っています。

ハマクラさんが生前中、リトルマヌエラで”Kiss Me Again”を歌ったテープが残っています。それでCDを作りました。

Vladimir Samoilovich Horowitz

80年代に2回来日しました。ミスタッチを評論家に指摘され、2回目をリベンジに来ましたが、料金が50000円が28000円に値下げになりました。

Whitney Huston

90年代の始め頃に”I Will Always Love You”をよく聴いた。ディオンヌ・ワーウィックの従妹ということで、おじさんたちの間では「なるほど血は争えない」と言われたものだ。

William Christopher Handy

1909年「ブルースの父」W.C.ハンディが書き留めた"Memphis Blues"がブルースの最初の楽譜です。1914年に彼は"St. Louis Blues"を書きました。

Wolfgang A. Mozart

学生時代には、モーツァルトのRequiemのステージを経験しました。

Yip Harburg

1939年のミュージカル映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが歌った”Over The Rainbow”はYip Harburg作詞、Harold Arlen作曲。1939年のアカデミー歌曲賞を受賞している。

  ◆ 

誰もが子供の頃に切手収集の経験があるだろう。何時まで続けられるかが人によって大違いだ。高校からの後輩がFacebookで切手を添えて音楽家の誕生日、命日に合わせて紹介している。

凄い数の切手を持っているのだ。しかし、持っていない切手もあるという。それらはネットで検索して見つけたものだと言う。そこで、わかGもネットをググって見たら、出てきた出てきた。

(2023/7/2)

新ページの紹介

この楽人切手の話から派生して、新しいページを書きました。つい面白くてね。

⇒ GRENADA製の楽人切手

⇒ Elvis Presleyの切手

⇒ Frank Sinatraの切手


Index
Previous
Next