ジャズとコーラス

(19) 日本のジャズ・コーラス育ての親 小島正雄

Masao Kojima(1913-1968)

日本には戦前、ジャズ・コーラスなんてありません。と言うと中野さんにしかられます。中野忠晴とコロンビア・リズム・ボーイズは昭和9年にダイナを唄っています。中野忠晴の子息、忠彦さんは音楽プロデューサですし、孫のマサハル君はジャズ歌手でデビューしています。2004年10月にたまたまある会で会う機会があり、この話をこの章(26)に付け加えました。

ハーモニー音痴の日本人にはジャズコーラスは流行らなかったし、出来ないといって良かったのではないでしょうか。音大で声楽をやったって、スイングなんて出来るわけはありません。第一、そんな先生がいなかったのです。そのうち戦争になり、ジャズは禁止になりました。

学校で2部合唱、3部合唱なんてありましたが、楽しくないのです。コーラスの醍醐味を味わおうとするとクラシックの宗教曲までいってしまいます。これは背筋に冷たいものが走るほど感動的です。しかし、一般向けではないことは確かです。大編成のオーケストラと大合唱団でやるものですから。

そんな中にも、我が国のポピュラー・コーラス育ての親、小島正雄というジェントルマンのおじさまがおりました。太平洋戦争が終わって、長尾さんと戦後初のフルバンド、ブルーコーツを結成したのです。もう50年になります。

いつもよい仕立てのスーツを着こなしているお洒落なベスト・ドレッサーでした。わたしが小島さんを好きだったのは、金儲けのためにコーラス・グループを育てたのではなく、いいものをみんなに知ってもらおう、そして楽しんでもらおうと考えたに違いないと思っているからです。その結果としてお金が儲かれば言うことありません。



スリー・グレイセス

初期の11PMの司会をするようになって大衆に顔を知られるようになりました。小島さんは日本でもコーラスを流行らせること、いいコーラス・グループを育てて流行歌と同じように誰にでも聞かせることが夢だったのでしょう。ダークダックス、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ、ボニー・ジャックスは小島さんの許から巣立ったコーラス隊です。小島さんは54歳という若さで急いでこの世を去っていきました。

女声コーラスでは、スリー・グレイセスが小島門下生です。彼女らはスタンダード・ジャズ・コーラスを専門に唄ってきました。子育てを終わり、20年以上の年月を経てライブ・シーンに再登場してきました。ジャズは年取るほど味が出てきます。昔と変わらず、若々しく茶目っ気たっぷりのステージは楽しいです。アンドリュース・シスターズの唄っていた歌が彼女らのレパートリーには多いです。

昭和33,4年頃、私が学校が終わって渋谷から地下鉄に乗ると、神宮前から3人が乗ってきます。小島宅で練習を終えて帰るところです。新橋で降りて乗り換えです。

昔のことを知らない若者が聴いて「すげぇ英語の発音がうめぇや」と驚いています。こっちに言わせりゃあ「そんなの、当たりめぇだよ」。

99年11月16日には神宮の森、日本青年館大ホールで復帰後、第2回目のコンサートが開かれました。それにわれわれの素人グループがゲスト出演し、グレイセスと掛け合いでコーラスをやってしまいました。じつに面白いコンサートでした。

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小島正雄追悼文集1968


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