ジャズと小噺

(17) 小笠原暁先生とゴンタの夜 Tango Notturno

Prof. S. Ogasawara
(1931-2020)

私たちが学部を卒業し、修士課程に進んだ頃、日本の若手のOR研究者を集めて仲良くさせようと、当時、30代の関東と関西の何人かの中堅研究者が大学や企業の研究所にも声をかけてSSOR(Summer Seminar on Operations Research)という研究グループを立ち上げました。1960年代半ばのことです。

関西の代表には小笠原暁先生という方が居られました。

関東、関西に拠点をいくつか作り、そこで毎週「勉強会」が開かれました。東京では大岡山の東工大にいくつかの大学と研究所の人たちが集まってきました。我々のようなヒヨコが共通のテキストである”Method of Feasible Direction”という本を読んで、自分の分担されたところを解説、発表するのです。今ではプレゼンテーション(略してプレゼン)といわれていますが、当時はそんな洒落た言い方はしませんでした。

何ヶ月かかかってその本を読み、仕上げは飛騨高山での夏の合宿です。全国から30代の先生たちをリーダーに、20代の我々学生までが全国から集まってきました。午前、午後と勉強会が続きます。発表資料を模造紙に書いて準備する人は、夜遅くまで作業をしたりしています。われわれはヒヨコですから、東京にいる間に準備万端整えて、発表の練習なども完璧にして乗り込むわけです。

その合宿中によく遊んでもらったのが先生でした。関東にはこんな先生は存在しません、すばらしいキャラクターの持ち主なのです。誰もがこの先生を好きにならずには居られないのです。毎日、おもしろい壁新聞を書いては張り出します。参加者はそれを見て、美味しい店に行ったり、安い店で飲んだりするのです。私は「お遊び怪獣プレイボン」というニックネームをつけられました。そうして先生からは特別に可愛がれた若者の代表でした。これが、第1回SSORのお話です。次の年は先生のお膝元、六甲山と有馬温泉で、第11回は私が世話人となり赤倉で開催しました。

こうして40年以上にわたっての付き合いをさせていただきました。先生は、K商大からH県企画部長、教育長へと転進し、後には6年間にわたり副知事を務めました。この当時、「アカデミックがバカデミックになった」と言っては笑わせていました。しかし、県知事への道はさっさと振り捨てて、再び「アカデミック」に戻ったのです。

K商大には12年、役人生活も12年の後、84年に六麓荘の高台にあるA大学の教授、1995年には学長に就任されました。阪神淡路の大震災で被害を受けた大学を復興させたばかりでなく、西宮市・宝塚市復興の計画策定にも座長として大きな力を発揮されたのです。研究室がめちゃくちゃになったということです。研究室の書棚には漫画の本が一杯ありました。全部、ごちゃごちゃになったのでしょう。昼寝用の寝椅子はどうなったのでしょう。98年に引退後は、居を生まれ故郷の東京に移して、最近では週に3回唄いにお出かけという悠々自適の生活を送られています。

「夏休みには泊まりに来い」と言われ、学生時代には、先生のお宅を拠点に関西を遊び歩いたものです。関西ゴルフツアーもやりました。

先生のお宅と道路を挟んで、北側には有名な越木岩神社がありました。大地震の時にはこの鳥居が倒れたということです。

夜になると、三宮に連れて行ってもらいました。先生は唄う事が大好きです。わたしと一緒なんです。三宮あたりには先生が開拓した生のピアノ伴奏をして唄わせてくれる店がごろごろありました。何軒もはしごしたこともありますが、先生が最後に行かれるお気に入りの店は2軒ありました。

一軒は水車のあるお蕎麦屋さんの並びにある「シャンゼリゼ」というシャンソニエです。上平田裕子というシャンソン歌手のお店ですが、藤田美乃留という達者なピアニストがいてどんなジャンルでも弾いてしまいます。

先生のお得意ジャンルは、ドイツ語のポピュラー歌曲やオペレッタなどです。これは表向きでして、全国の知事会でも披露して馬鹿受けしたという窮めつけの替え歌が2曲あります。一つは「乙女の祈り」、もう一つは「トルコマーチ」です。ばっちい「レナウンのコマソン」もありました。最近、替え歌を唄う機会があるのでしょうか。

シャンゼリゼに初めて連れて行ってもらったのは60年代後半かと思います。大学院生の時代です。古い話で定かではありません。一番最近は2003年の春に、神戸大学で文科省の高校の情報教員研修会がありました。私は講師です。その前夜に友人と家内を連れて久しぶりに寄りました。突然、行ったので裕子ちゃんはビックリでした。早々と店を閉めて、ジャズ専門のGreat Blueに連れて行かれました。

裕子ちゃんは身障者たちのためにチャリティのコンサートなどもやりました。そのためのオリジナルの歌はそれは感動的でした。聴くと悲しくなるのですが、よく唄ってもらいました。

次の店は北野坂を上りかけた途中にあった「Dr. Jazz」という店です。この店が出来たのは80年代の半ば頃だったと思います。仕事運も悪く、身持ちが悪くどうしようもないピアニストがいたのですが、先生が見るに見かねて自分の店を出させたのです。飾りの置物や高級酒類も先生が持ち込んだものです。若いわかい奥さんをもらったのですが、それも先生が仲人までしました。それ以前は神戸界隈のジャズ・クラブやワシントンホテルなどでピアノを弾いていた時期があります。そんな頃に会ったのが最初ですが、サミー川島と一緒でした。何という店かは忘れてしまいました。この人が神戸の中川和というジャズピアノの名手です。

この店に行くと、お定まりの手順があります。儀式のようなものです。

まず、カウンターに蓄音機を出して、昔なつかしのSPレコードを1,2曲聞くのです。手回しの蓄音機ですよ。当時でも珍しいものでレコード針が消耗品です。東京に出ることがあると、中川さんは「レコード針」を池袋の西口近くの蓄音機屋に仕入れに行くのだそうです。ひそひそ声で「あれ、ありますか〜?」「ありますよ〜」

「若ちゃん、今夜はこれにしよう」と見せてくれたSP盤は「ゴンタの夜」でした。

「”ゴンタの夜”?」

「”夜のタンゴ”や」

そうです、戦前、戦中のレコードはタイトルもすべてが右から左に書かれていました。唄は「子りの谷淡」でした。原曲は、H.O.ホルクマンのコンチネンタルタンゴで”Tango Notturno”という題名です。先生はこの歌をドイツ語の歌詞でよく唄われていました。

この儀式が終わると、「そろそろ始めますか?」と言って、中川さんはカーメン・キャバレロのサイン入りピアノに座ります。


Kazu Nakagawa at Dr.Jazz(三ノ宮)

「なに唄う?」

よく、Stardustなんて唄ったのを思い出します。その中川さんは80年代終わり頃でしたか、90年代はじめ頃でしたか、若くしてがんで亡くなってしまいました。この写真はおよそ20年ほど前の中川さんです。私が最後に会ったころと思われます。

中川さんが実名で登場してくる本が出版されています。あるジャーナリストが書いた「五線紙の街」という本です。

今はない南青山のLamp Lightの有福 隆は中川さんが「先生の家の近くだから寄ってごらん」と紹介してくれたピアニストですが、よく通ったものです。そこで、Dolly Bakerと沢田靖司、それに鈴木史子にも出会うことになるのです。こんなことを書いていると、何か運命的な気がしてきました。

もう、なくなった店のことを宣伝しても仕方がないのですが、東京一の「ハンバーガー」を食べさせてくれました。下の娘が幼稚園にも上がらない頃、「有ちゃんのハンバーガーが食べたい」と言うので度々連れて行きましたが、Lamp Light最年少の客だったわけです。

Dr. Jazzのことを思い出させてくれたのは、Kanafu Marieという女性シンガーソングライターですが、20年以上も前に沢田靖司の教室に通ったという縁で私に連絡がありました。それが、なんと学生時代には中川さんにジャズ諸々を習ったということがわかり、不思議なつながりに驚いています。沢チンだけでなく神戸の中川和という私の古いジャズの友とつながりを持つ人はこの人だけです。中川さんのことを書き残そうと思い書き始めたのですが、中川さんの話の導入には小笠原先生を書かないわけには行きません。

というわけで、このページを書くきっかけはKanafu Marieが作ったものです。彼女の経歴を見ているだけでも人の歩まない道を選んで歩んできたように思います。壮絶な体験をしてきた本当に不思議な人です。彼女の最新の情報はブログに綴られています。(2007/8/29)


At Preussen, 2007/9/26

今日は私たちの主たる学会である日本OR学会の創立50周年記念の式典が六本木の新国立美術館に隣接する政策研究大学院大学で開催されました。

小笠原先生は当学会の2002-2003年度の会長です。今日は元会長としての胸に大きなリボンをつけて参加でした。それなのに、その懇親会をドロンと2人で抜け出してピアノサロン・プロイセン(新宿)に直行しました。

私は昔はこの店に度々顔を出していましたが最近はご無沙汰をしていたのです。

先生は、インターネットでこの店を見つけて最近、それもごく最近になって通うようになったのです。誰かに紹介されたのかと思っていたら、ご自分でさがしたのです。

先生は東京に出てくると、これもなくなった店ですが、DOMINANTという店に寄って唄うことがお定まりでした。ここは、80年代から90年代の私のフランチャイズです。DOMINANTのバンマス山口は先生を大切にしてくれました。今は六本木ヒルズが建っています。東京に引っ越してからはロアビルの前にある「IZUMI」という店が先生のお気に入りでしたが、経営者が北海道に引っ込んでしまって経営者がかわり、ライブハウスになってしまいました。旧IZUMIの娘さんが赤坂にトロワ・ポルトというピアノ・バーを開いてくれました。先生の目下のホームグランドです。

さて、久しぶりにプロイセンのオーナーの大藤さんに会いました。「わかやまです」というと、「わーっ」と訳のわからない声を発しました。ビックリしたのでしょう。この店でも先生は大切にもてなされていました。通常のピアノバーでは、なかなか先生のレパートリーの伴奏が出来る人が少ないのです。ポピュラーと言ってもドイツ語の歌が主たる持ち歌ですから気持ちよく弾いてくれる伴奏者がいる店でないといけないのです。

いやー、たまたま居合わせたお客さんが、東大経済学部卒の女性で声楽をやっているソプラノでした。何と先生と掛け合いで歌われました。「先生をよろしく頼みます。一緒に歌ってあげてください」 

そうです。久しぶりに先生の「ゴンタの夜」を聴いてきました。(2007/9/26)

先生は神戸商科大学で12年、兵庫県庁に12年、企画部長から教育長、副知事となり、84年にまた大学に戻り、芦屋大学に14年居られ、学長で引退され、東京に引っ越されました。

2008年春の叙勲で、「瑞宝中綬章」を受章されました。おめでたいことには違いありませんが、私に言わせれば「遅すぎて、小さすぎやしませんか?」です。(2008/4)


Prof. S. Ogasawara
(1931-2020)

訃 報

2019年に世田谷区瀬田の介護施設に入りました。早速、顔を見に行って来ました。入れ歯が外れていて、喋っても「ごおにょごにょ」でした。

一時、意識がなくなりNTT関東病院に入院しましたが、元気になり施設に戻りました。

2020年9月28日、衰弱が激しく亡くなりました。89歳でした。R.I.P.

(2020/10)


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