しょうちゃんの繰り言


経済格差が拡がる理由わけ
(Working Poor)

クリントン政権下で、大統領経済諮問委員会・委員長を務めた(1993〜1995年)ローラ・タイソン氏(Laura D’Andrea Tyson 1947〜経済学者)の給料格差に関する発言が、先日インターネットのニュースで紹介されていた。

彼女によれば、過去35年間のアメリカでの給料の変遷は、下層10%に当る労働者の場合実質6%減。同じ様に中央に位置する平均的労働者は5〜6%上昇。そして、トップ1%に位置する経営陣は150%以上増加ということだ。この背景の詳細は分からなくても、基本的な図式は充分理解出来る。35年前の給料分配が不適切だったため、長い時間を掛けて現状に改善されたと思う人はどこにもいないだろう。現実はアメリカの社会が、所得配分に関し異常な方向へ進んでいると捉えるのが、この35年間に起きた変遷から見る正しい判断ではないだろうか。彼女の発言の主旨は、そのことを指摘しているに違いない。

従って、経済諮問委員会の元委員長の立場にあった彼女が敢えてこの数字を発表したのは、アメリカを正常な国に戻したいという願望からではなかろうかと推測出来る。彼女は他の経済学者と共に、最低賃金の上昇を議会に訴え、労働者の待遇及び福利厚生の改善を求めてもいる。長い目で見れば、それが企業の活性化に繋がり、社会の安定的成長の基盤になる事が分かっているからだろう。

アメリカは軍事・経済の圧倒的な優位性から今でも世界をリードしているが、もはやかつての“世界の警察官”を誇った力はない。国内では未だに人種問題を抱え、銃での事件は後を絶たない。それに最大の問題は国民間の経済格差だ。貧困層の拡大は国の安定にも影響を及ぼし、国全体としてのあり方から判断すれば決して望ましいことではない。私達が戦後理想像としたアメリカは今や存在せず、現在のアメリカは先進国の学ぶべきモデルとはなり得ないだろう。

一部の既得権者の利益の為に国民が奉仕する姿は、長く続くものではない。その一部の既得権者を認識するには、政治と深く結びついた金融資本・軍需産業・兵器産業・石油産業・等々のアメリカを代表するパワー集団を思い浮かべれば納得することが多い。会社単位ではその既得権者に1%の経営陣も入るだろう。

国の総合力は国民の積極的社会参加があって初めて発揮されるが、これだけ貧富の差が国民の間に出来ると、国の安定した成長は望めない。不満を持つ人間は反社会的存在に成り易く、そういった階層が増えるのは深刻な社会不安の直接的要因になり得るからだ。

今年の9月18日に書いた拙文「それぞれの人生」で触れたのも、アメリカではトップの経営者が一般職員平均給与の300倍の年収を得ている事実だった。(ちなみに平均年収が500万円だとすれば、その300倍は15億円となる)

一方、日本でも今や創業者でもない自動車メーカーの社長が年収10億円を得ている。それでも“欧米と比べればまだ低い”と彼は嘯いている。さらに、“高い報酬を出さないと優秀な人材が集まらない”とも唱えていたが、最近彼の部下も大分辞めたらしい。10億円貰っても後継者を育てるという社長として当たり前のことも出来ないでいる。彼の持論によれば、10億円程度の報酬では後継者を育てる程優秀な社長は雇えないのかもしれない。だとすれば、アメリカのやり方を追随する日本の企業は、この会社を含め優秀な人材を雇えないため殆ど全て近い内に無くなることになる。

臆面も無く、一般社員のみならず役員の中でも自分だけ飛び抜けた高給を正当化し、根拠の無い自己主張をする経営者の姿は、かつての日本ではあまり見られなかった。これもグローバル・スタンダードの表れだろう。歴史も伝統も、さらに言えば一過性の経済効率だけで経営哲学も無い国の、弱肉強食の社会を日本が真似する必要はない。

日本で史上最高の利益を上げた企業は、その原材料を生産コスト割れの値段で買い続けていた。そして、その納品は彼らの指定した日時に言われた量を間違いなく届けなければいけない。同業の現在10億円貰っている社長も就任早々、日本の鉄鋼会社に自分達の買い値を押し付け、“嫌なら韓国メーカーから買う”と言ったセリフは業界では有名な話だ。それで取引を止めた鉄鋼メーカーもあった。そんな男でさえ、会社を再建したら名経営者のごとく日本のマスコミは持ち上げた。大量の人(社員)を切り、採算の悪い工場を閉め、工場跡地を売り、素材メーカーにコストを割った価格を強要し、その挙句の再建であり10億円の報酬だということを忘れてはいけない。どれだけの従業員を切ろうと、その事実は彼の頭の中には勲章として輝き、決して会社再建の尊い犠牲者だという思いは無いだろう。松下幸之助は不況でも決して従業員の首を切らなかった。会社の不況は断じて従業員の責任ではないからだ。この男に松下さんの経営理念を説いても馬の耳に念仏だろう。

一部の企業や一握りの経営者を富ませるために人は働いていない。松下さんにはその基本が良く分かっていたに違いない。

非常に大まかな括りだが、一部上場企業に就職出来る総合職の大学卒は1割にも満たないそうだ。一部上場に匹敵する専門職(医師・弁護士・会計士等々)、それに外資系企業や公務員の道もあるが、この数字には入っていない。また、内容は優良でも上場していない企業もある。又、各種メーカーでは、大学卒業の総合職でなくても一部上場企業の現場で雇われている人達は大勢いる。この図式は我々が就職した1960年代でも基本的には同じだった。

こういった背景があっても、一部上場企業に入社出来る大学新卒は1割にも満たない。専門職・公務員・外資系企業等を入れても一部上場に匹敵する職場はせいぜい、それも1割程度ではないだろうか。極めて乱暴な決めつけだが、若し学生が勝ち組となるため一部上場やそれに匹敵する職場を望むとすれば、学生の大半は挫折の道を歩むことになる。

だが、学生は一部上場企業だけが働く場所ではないことを知るべきで、単一企業の最盛期はそんなに長いものではない。戦後、石炭産業、繊維産業、化学産業と脚光を浴びた産業は現在では花形として残ってはいない。戦後に創立された本田技研もソニーも、当初は町工場に毛の生えたような存在だったが、今では世界的企業として君臨している。既存の出来上がった企業にしがみついて生きるのも選択肢の一つだろうが、若者は自分で人生を切り開いていく覚悟で臨むのも遣り甲斐のある生き方だと捉えて良いのではなかろうか。

今と比べて経済的な背景が違ってはいただろうが、一部上場企業に入れなくても少なくとも我々の世代は貧困層に入らないで済んだようだ。

残念ながら松下さんのような経営者は今では滅多にいないだろう。多くの新進起業家で現在成功した人達も豪邸を建て、自分の取り分の拡大には熱心であっても、最初に従業員のことを案ずる人は稀だ。企業の内幕は従業員の定着率を見ればすぐ分かる。社員が辞めようとしない会社は概ね優良企業と言えよう。だが、成功して話題になっている企業は従業員の定着率が悪いようだ。断言するが、こんな企業が長続きする筈が無い。待遇や働く環境・条件が悪く、先に希望がない会社で定年まで頑張る人間はそんなにいるものではない。

会社を株主のものと声高に言い出した頃から、日本でも経営者の姿勢に変化が窺われる。かつての経営者の年収は、何度も言っている様に新入社員の20倍という不思議な暗黙の一致点があった。私達世代が現役で働き、日本が著しい発展を遂げていた1970年代のことだ。今の給料レヴェルで換算すれば、新入社員の年収が300万円なら社長は6,000万円となる。当時も欧米と比べれば経営者の報酬は低いと言われていた。それでも日本の経営者達はそれ以上の自己主張はやらなかった。これは日本の文化であり、伝統だったのだろう。例外は政商と言われた人達だ。彼らは戦前・戦後を問わず、政治権力と結びつき破格の富を得ている。

私の認識が甘かったのかどうか分からないが、1960年代、70年代には“働く貧困層(Working Poor)”と言う社会現象を耳にしたことがない。だが、当時も生活保護の必要な人達はやはり一定の割合でいた。問題なのは働いても結婚も出来ない若者が現在増えていることだ。その人の生き方の問題ではなく、経済的理由で結婚が困難だとすれば、この国の将来は明るくない。

国際間の競争が年々激化し、各企業はその対策を取らざるを得なかった。円高はその中でも最も経営者を悩ましたに違いない。それでも日本は何とか今日までやって来た。その日本がグローバル化の波に乗り経営陣(トップ1%)の報酬をアメリカの過去35年の実績に見習って増やせば(150%以上)、確実に一般社員の士気は落ちるだろう。会社も国も人が支えていることを考えればグローバル・スタンダードに倣う必要はない。むしろ日本では有害でさえある。

日本にはアメリカのパワー集団のような典型的例はあまり見られないが、強いて挙げれば地主集団となるだろう。ゼロサムからスタートした若者が都会で結婚し、家を持つのは大変難しい。必要以上に土地が高いからだ。宅地が坪当り100万円以上という価格は少なくとも普通に働いている人達にとって手の届くものではない。拙文「物の値段」でも取り上げたが、土地の価値が上がったのは国民全部が貢献した結果だ。地主は労せずその結果を独り占め出来る。このバランスを取るのは政治にしか出来ない。

日本は民主主義を基本とした自由経済の国だが、そこには富を一人占めしない穏やかな歴史があった。経営のトップは欧米に倣って彼ら並みに報酬を上げようとはしなかった。また、少なくとも住む家に関して、昔の人は今ほど苦労しなくて済んだだろう。土地が有利な資産として金貸し(金融機関)が評価した頃から国民間の資産バランスは壊れていった。彼らは人や事業内容に出資するのではなく、土地と言う資産(担保)にその基準を置いた。国内で新規事業が活性化しないのには充分な理由がある。

戦後の貧しかった頃、私達の親世代は今ほどの不満も漏らさず耐えてきた。皆が平等に貧しければ人は互いに協力して前に進めるが、一部の人間が貧しいのは大きな社会問題の種を抱えたことになる。社会に物が溢れ、億単位の年収を取る経営陣が居る時代に結婚も出来ない給料で働いている若者も共存している。資産の無い高齢者の中にはアパートも貸して貰えない人達もいる。日本のこういった現象を、例外的な落ちこぼれの末路と見捨てて良い筈はない。

何も平等を理想とした社会主義国家を勧めている訳ではない。誰もが社会に参加出来、かつ誰もが憲法の保障する文化的な生活をおくる権利が日本国民にはある。実際そうやってきた。そういった当たり前の観点から見れば、今の日本は目先の利益を求め大事なものを忘れている様に私には見える。自社の利益、自分の利益に拘る前に国を支えている全ての人を思い出して欲しい。そうすれば他を犠牲にした自分だけの利益に捉われる我欲が、如何に見苦しいものかに気が付くだろう。世の中を住み辛くしているのは、不必要な高給を食んでいる貴方かもしれないし、土地の権利を自分の努力の結果だと勘違いしている貴方かもしれない。冥土への渡し賃は6文だというから“そんなに金を残してどうするの”と聞きたい。6文残しておけば取り敢えず冥土には行ける。

我欲が蔓延すれば、格差は際限無く拡がるだろう。経済の理論だけでは人間は幸せにはなれない。アメリカを見れば良く分かる。これもやはり貧乏人の戯言だろうか。

平成27年11月29日

草野章二