歌と歌手にまつわる話

(130) Good-bye :ゴードン・ジェンキンス問題(最終)

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2006年の12月に入った頃、前田憲男さんから一通のメールが届きました。「Goodbye ゴードン・ジェンキンス問題」という難問に関するものでした。

”Goodbye”は、ベニーグッドマン楽団が最初のレコーディングを行なっています。そして、グッドマンのクロージング・テーマとして有名です。これがオリジナルだと思っていました。

しかし、グッドマンの演奏する”Goodbye”の最初の8小節が、その後、市販されている”Goodbye”の譜面には書かれていません。

「その8小節は、誰かが付け加えたのか?」「あるいは譜面を出版する時に、なぜあの8小節をばっさりと削ってしまったのか?」という疑問です。

いろいろな資料をひっくり返して、その結果を前田さんに知らせました。その時点での見解は ⇒ ゴードン・ジェンキンス問題(その1) にまとめてあります。

以下は、この問題の結論です。

    

Gordon Jenkinsの2度目の妻Beverlyとの息子、スポーツ・ライターのBruce JenkinsはGoodman楽団の専属歌手だったMartha Tiltonにインタビューして、以下の記事を“Goodbye: In Search of Gordon Jenkins”という自身の著書に書いている。この本は2005年11月に出版された。

Gordon Jenkinsが“Goodbye”を書いたのは1934年とされているが、実際は1930年代の初めで21歳頃だった。当時、JenkinsはIsham Jones楽団に雇われていた。Jonesは“Goodbye”を悲しすぎる曲といって演奏することはなかったという。Jenkinsはあえてレコーディングも編曲もしようともしなかった。

Isham Jones楽団がニューヨークで仕事をしている頃、JenkinsはBenny Goodmanと仲良くなった。2人はテニス友達であった。Goodman楽団は1934年にNBCに雇われ、“Let's Dance”というラジオ番組に出ることになった。Goodmanはクロージング・テーマが欲しかった。ある日、このことをJenkinsに話した。

「何かいい曲はないかなぁ?」

Jenkinsは“Goodbye”を何小節かピアノで弾いた。Goodmanは興奮して「これだ!」と叫んだという。JenkinsはGoodmanのために編曲し譜面を作成した。そして、この“Goodbye”が1935年にラジオ番組“Let's Dance”ではじめて演奏され、最初のレコーディングはRCA Victorである。Jenkinsにとって最初の作品が1936年にはヒットパレード6位となってJenkinsにとってのサプライズとなった。


ここからが、本問題の核心部分である。実はこの内容はAlec Wilderの評論からの引用された2行である。

”As beautifully as Goodman played it, Jenkins' afterthought phrases became so integral a part of the Goodman arrangement.”

グッドマンの演奏も美しいのだが、ジェンキンスが追加したフレーズはグッドマンアレンジメントの中でまさに必要不可欠なパートとなった。

とある。これは、「ゴードン・ジェンキンス問題」の答です。

つまり、もともとジェンキンスが書いた”Good-bye”に、ジェンキンス自身がグッドマンのために「後からあの8小節を追加した特製アレンジなのだ」という意味である。

上記の評論は、1972年に出版された"AMERICAN POPULAR SONG : The Great Innovtors, 1900-1950"のOutstanding Individual Songsという章でAlec Wilderが書いている。

 

この本にまつわる話は ⇒ こちら

”Encycropedia of Jazz”の著者、Leonard FeatherがLos Angels Timesに書いた評論が同じくJenkinsの伝記の中に書かれている。「いくら聴いても聞き飽きることがない歌だ」

意地悪そうなWilderもジャズ評論家として有名な人であるが、奇しくも前田憲男と同じことを言っている。「あの8小節は無くてはならない」って言っている。

前田さんからは「ついに、一件落着だな!」ってメールが来た。これで「ゴードンジェンキンス問題の解決」だった。

(2015/4/20 追記・改訂)


グッドマンの演奏した「グッドバイ」の譜面をもう一度掲げておこう。市販の譜面にないのは「A」の部分の8小節である。

”afterthought phrases(追加されたフレーズ)”とは「A」のこと。元々はこの部分は無かったのである。

これはジェンキンスが後から付け加えたGoodman用特別仕様のアレンジだったのだ。

これが本問題の回答、結論である。

    

ボーカル・バージョンがレコーディングされたのは、1938年でAndy Kirkバンドによるもので歌手はPha Terrellである。ちなみにAndy KirkのレコードにはGoodmanの冒頭の8小節はない。当たり前だ。

Goodmanは1955年にRosemary Clooneyとのレコーディングで初めてボーカル版を出している。これも聴いてみた。見事に8小節はない。なるほど・・・

    

この話のエピローグに、ジェンキンスは誰のために”Goodbye”を書いたのかをお話しよう。Goodmanのために書いたのではない。Isham Jonesが「悲しすぎる」といって演奏しなかったという理由もわかってもらえる。以下の話は、Martha Tiltonのご主人Jim Brooksが重い口を開いてBruce Jenkinsに語った話である。

ジェンキンスは若かりし頃、一人の女性と恋に落ちた。彼女は妊娠していたのだが、2人はこれから何が起こるかを知るよしもなかった。結婚することが当然のことと思われていた。出産の日、何ということか母子ともに死んでしまった。それで、この曲が生まれた。ジェンキンスの初作品となった。出だしの歌詞はご存知のとおり、”I'll Never Forget You”で始まる。Isham Jonesではないが、世界中にこれほど悲しい歌はない。(2010/12/16)

GOODBYE

 

I’ll never forget you, I’ll never forget you
決してあなたを忘れない、決してあなたを忘れない
I’ll never forget how we promised one day
あの日 どんな約束をしたかを決して忘れない
To love one another for ever that way
ずっといつまでも互いに愛し続けようと
We said we’ never say good-bye
決して さよならは言わないと言ったことを

But that was long ago
でも、それは遠い昔のこと
Now you’ve forgotten I know
もう貴女は忘れてしまっただろう
No used to wonder why
なぜかと考えても無駄なこと
Let’s say farewell with a sigh, let love die
さあ、ため息と共に別れよう、愛を終わらせよう

But we’ll go on living
それでも僕たちは生きていく
Our own way of living
お互いに自分の生き方で
So you take the high road and I’ll take the low
あなたが高い道を行くのなら、僕は低い道を行きます
It’s time that we parted it’s much better so
その別れのときがやってきた これで良かったのだ
But kiss me as you go
でも、去り往く前に口づけを
Good-bye
さようなら


前田憲男訃報(2018/11/27) ⇒ 前田憲男83歳死去


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